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2 ゲイと映画館 ENKのゲイ映画制作と配給が作りだしてくれた場所

 生まれて初めてゲイ映画館(大阪東梅田ローズ劇場)に行った後、しばらくゲイ映画とも映画館とも離れた学生生活を私は過ごし、同級生との恋愛を想像しては背徳感に打ちのめされる日々を送っていた。
 ある時イギリス映画『アナザー・カントリー』が封切館で公開されると知り、近くの繁華街の上映館に見に行くことにした(1)。久しぶりの「ゲイを描いた映画」との前評判にどきどきしながら待合室に入ると視界に入るのは女性ばかりだった。内心がっかりしながら私は地元でもないのに知り合いに見られたくないしと最後列の右端に座った。
 刺激的なシーンと悲劇的な話の展開の途中で休憩時間があり、気づくと1つ空席をおいた左隣にフックン風のふわふわ髪の男子が座っていた。そしてこのフックンは幕間の休憩時間に「トイレに行くので、この席を(他の人にとられないように)とっておいてください」と告げてすたすた出て行ったのである。高校生にしか見えないのに知らない年上(私)に声かけていくなんてさすが町の子は肝が据わっているなと思った。
 この後に何が起きるのか期待して展開を待つほどの経験を私は持っておらず、そのフックンにすら顔を見られるのが恥ずかしくて、映画が終わる直前には映画館を出てしまった。
 恥ずかしさゆえに最後列を選んだ2人が出会うことはなかったが、最後列に集まるゲイの心理、恥ずかしさと見られたくないゆえの共通した空間心理的行動がそんな場所、他の場所も作りだしているのかもしれない。

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 ゲイ映画館は92年12月『薔薇族』の広告記事をみると博多オークラ、小倉名画座、広島的場シネマ、大阪東梅田ローズの他、上野傑作劇場、横浜光音座、新宿シアターミラ、新潟映画大要、京都シネフレンズ西陣、金沢駅前シネマと全国に広く普及していた。99年12月の『バディ』誌の広告では大宮オークラも確認できたが、札幌、仙台にはできておらず(要確認)、新潟と金沢にあったことは少し驚いた。北国では上映協力する映画館がなかったのだろうか。

 ゲイ映画館の営業形態で興味深いのは、ゲイ向け劇場とストレートのピンク映画劇場が同居したつくりになっていることである。博多オークラ劇場、小倉名画座、広島的場シネマ、上野傑作劇場ではいずれも安価な入場料金のピンク映画館とゲイ映画館(封切上映とリバイバル上映両方)が同じ建物に同居していた。ゲイ映画館の中で何が起きていたのか、といったゲイ生態学じみたことは描写したいと思わないのであるが、同じ劇場経営者がピンク2番館とゲイ映画のセット営業をする判断が興味深い。1983年(東梅田ローズ劇場開設)頃からゲイ映画の配給が始まり、制作と配給が盛んに行われたという供給サイドの要因もあり、供給が各地の映画館経営者の判断を促したとも言えそうである。

 記憶が曖昧ながら東梅田ローズ劇場で初めて見た映画は『巨根伝説 美しき謎』だったと思うが(他で見た記憶と混同しているかもしれない)、この作品は三島由紀夫の楯の会とその決起の話にアイデアを得ておりとても印象深かった。他のこれまでに見た沢山のゲイ映画の内容はほぼ記憶にないがこの映画だけは覚えている(2)。

 調べてみるとこの作品はゲイ映画制作会社ENKの初作品かつ大ヒット作だったとのこと。確かにこの作品はその後も繰り返し上映されているようだ。このヒットの後ENKプロモーションがゲイ映画をつぎつぎと世に出していったことの意味は大きい。そしてこの配給会社が今日も存続していることはゲイ社会にとって無形文化遺産ものだと思う。
 このENKプロモーションについて少し遡ってみると、その前身は東梅田日活、そしてケームービーを経てENKとなっていて、ゲイ映画、ピンク映画両方を制作、配給、興行している。なるほど、制作も配給も映画館経営もして、またゲイ映画、ピンク映画の両方を制作していれば映画館も2タイプ並ぶはずである(3)。

 また上述の博多、広島、上野の劇場では「会員之証」を発行していて(おそらく他のゲイ映画館でも)券購入の際に会員割引を受ける他、いわゆるスタンプカードにもなっていて、8回か10回かスタンプが集まると無料券がもらえるというシステムだったと思う。この会員之証はどこでも同じフォントの印字で名刺サイズのカードだったが、思い返すと配給会社(ENK)のオファしたプロモーションだったのかもしれない。

 申し訳ないのだが、私は「会員之証」は都度都度捨てていた。それはゲイに関係するものは全て持たない、保存しないと決めていたからである。ある日道で倒れたり、財布を落としたりしたときに、中身を確認した人にゲイが「ばれる」のを恐れていた。ゲイ雑誌もだいたいは捨てていたし、ゲイ雑誌を通して文通した手紙も基本的にはすぐに捨てていた。振り返ると自分をひたすら否定していた時間がもったいなく、それを取り戻す意味でも今このようなNoteを書いているわけである。

(一度、アパートに空き巣狙いに入られたときに、交番から来た若い警官2名が家の中を調べて記録を残していたのだが、『薔薇族』『GMEN』が無造作に積んであるのもきっちり記録され、雑誌の表紙の上に犯人の指紋が残っていないか雑誌を取り上げて丁寧に指紋取りの作業していたので、『ああ、私はこの瞬間に世間にばれてしまった』と思ったが、いろいろな通信記録が残るノートパソコンが盗まれた方がショックが大きかった。)

 その昔、多くのゲイにとってカミングアウトは現実的ではなく、ある空間や時間を共有していてもお互いがゲイと知るのは本当に難しかった。ストレートの世界では、お互いの指向を説明、確認することもなく、そうであることを前提に男女が出会い、恋愛観を自然に語り、たまには恋愛に至るのかもしれないが、ゲイの場合は教室や職場に同じゲイがいるかどうかなど知りえることはほぼ無かった。多くの当事者はストレートと同じように思春期を迎えながらその気持ちの向け処がわからず、絶望的な孤独を味わい続けるのである。したがってゲイにとって、ゲイの集まる場所は自分を開放して、誰かと出会う貴重な場所だった。中には一生のパートナーに映画館で出会った人もいるのではないだろうか。



(1)『アナザー・カントリー』英国の名門寄宿学校という閉じられた場所の中での2人の少年のゲイへの目覚めから成人への過程で、自分に正直にゲイを生きようとして相手と対立する男と、自分や仲間を否定して別の自分を生きる男の邂逅と葛藤と別れを描いた映画で1985年に日本で公開。

(2)この作品の紹介はBridgeさんのブログが読みやすい。「巨根伝説 美しき謎」Bridge 2020年8月17日                http://bar-bridge.seesaa.net/article/476888387.html

(3)日本のゲイ映画と映画館のルーツについてはあちこちのウェブサイト、ブログに書いてあるので詳細を重複させることもないと思いましたが、場所との関わりの点からだけ触れたいと思います。

 写真は福岡でゲイ映画館や戦後に初期のゲイバーがあった中洲。




 


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