岡本恵さん「盲霧」(第六回笹井宏之賞・山崎聡子賞受賞作)の感想と選考座談会への批判


「盲霧」の感想

これから、第六回笹井宏之賞で山崎聡子賞を受賞された岡本恵さんの作品「盲霧」(書肆侃侃房『ねむらない樹』vol.11掲載)の感想を書いていく。

はじめに(韻律など)

「盲霧」は読み返せば読み返すほど恐ろしい連作だと思っている。

あたらしい言葉を読むのは怖い。だから言葉の意味を読んで、理解して、支配できたらいいなと思う。
それなのに言葉は音を持っていて、独自のリズムと論理で動きだしてしまう。
一首目

死ぬためのみどりのみづを海原へ吐き出しながら金沢ミンク

岡本恵「盲霧」

「みどり」→「みづ」→「ミンク」と、ミ音で次々に言葉がつながれて行く。
その後も、二首目「子ら」→「コーラ」、三首目「シンナー」→「水深」→「死んで」と、音を通じて言葉がつながれ、世界が見せられていく。連作を通じて、韻は大きなポイントとなっていると思うし、それがとてもよくリズムに乗っている。
意味というリードにこの犬をつないでおくことはできない、と悟らされるような気がする。読者である僕はこの世界を知らない。知らない道を案内してもらうときには、思い通りにならないことを覚悟しなければ。

ただ一方で、しっかりと言葉の持つ意味をも駆使して、世界が提示される。
一首目でミ音から金沢ミンクが導かれ、二首目では「子ら」から「コーラ」、ひいては「瓶」というこの連作のキーワードともいえるものの一部が早速引き出されてきたが、それでは最後の五十首目の歌はというと、

砂浜にコーラの瓶の落ちてゐてミンクの声をみんな知らない

岡本恵「盲霧」

と、「ミンク」から「みんな」が導かれるように、「ミンク」を通して世界は完結しなかった、というように感じた。最後までこの恐ろしさを残したまま、読者を解放してくれないのか…という絶望的なまでの快感。

このように、「盲霧」は言葉の持つ音を使って世界を深めているようなところがとっても魅力的に思う。
同じモチーフが繰り返し登場する連作の中で、一首の中でも繰り返し同じ音や似た音が出てきて、そのたびに霧の中に姿が浮かび上がってくるような、そんなイメージで読んだ。

もちろん、この世界はそれだけに留まらない。「盲霧」という道には坂がある。以下のように、ごつごつした質感を持った具体性が、読者に迫ってくる。

人物

この連作は決してファンタジー的な世界ではない。「金沢ミンク」や後述の「おそろしい火を絶やせない岬」のように、根室のあたりの特定の土地を舞台にしていることが示された上で、そのフィールドの中で具体的な人名や出来事が次々に登場する。
それによって、この連作は言葉の独特なリズム感を伴いながらも、空中に浮いていくことは決してなくて、地面の上で世界が見せられていく。
サッカーで長らく世界最高とも言われたメッシのドリブルについて、「足にボールが吸いついているよう」と言われることがあるが、「盲霧」は言葉が語り手に吸いついているよう。それにはこの音楽性と世界観の組み合わせが関係しているような気がする。

たとえば、

もうたぶん処女ではなくて真希ちやんはヤン車に乗つて登校をする

岡本恵「盲霧」

という17首目にしても、「真希ちゃんは」→「ヤン車に」や「処女」→「登校」という具合に、「真希ちゃん」という具体的な人物の描写と、韻を踏む独特のリズムとの組み合わせは、地上の世界の新しい見え方を提示してくれている。

繰り返しになるが、「佐藤」「千葉くん」「久美子」「杉本さん」など、登場人物が具体名で呼ばれている歌が多い。
そこでふと思い返した。子供が体験や見聞きしたことを語るとき、具体的な人名を喋ることが多い気がする。「今日ね、〇〇ちゃんがね〜」というように。大人になるといつからか「こないだ友達がさ〜」ですませてしまうような。
もちろん子供は純粋、大人は汚れている、という単純化をするつもりはないけど、大人が「友達がさ〜」「同僚がさ〜」という無駄のない合理的なエピソードトークを語るとき、そこにはもしかしたら何か失われてしまったものがあるのかもしれない。
「真希ちやん」等について語っているのは大人になったのちの主体ではなく、今まさにこの土地で子供から大人へのはざまを生きている生々しい主体なのではないか。あるいは、大人の声で語っていたとしても、その中には「その時期」の主体の声が奥から響いてくるような感覚。そのような文体にも感じる。

いわゆる「北方領土」返還運動について

そして、舞台となっている土地についていえば、いわゆる「北方領土」返還運動は重要な要素となっていると思う。
正直なところ、23首目「おそろしい火を絶やせない岬」、47首目「火だけある岬」が何を指すのか、初読の時はピンとこなかった。灯台のことかと思った。ただ、連作を読み返すとどうも土地との関連で深い意味がありそうだと思い、「根室 火」でネット検索したらすぐに一つの意味にたどり着いた。
恥ずかしながら、根室市の納沙布岬に「祈りの火」というものがあることをこの時まで全く知らなかったのだ。
この「火」を「祈りの火」として読むと連作の見え方は更に深まったように感じる。

土地には元島民も多くいるはずで、個人個人の思いや生活の中にはもちろんさまざまなものがあるだろう。そういった中でも、いわゆる「北方領土」返還運動が国家的な政治運動として質量を持ち、土地が国家的に位置づけられたときに、主体にそれがどう映ったのか。20首目の一字空けの後の「はい」、23首目の「絶やさない」ではなく「絶やせない」というところなどからは受け身に「させられる」主体の困惑(あるいはそれ以上)を思った。
そのような、海を挟んでアメリカとロシア(あるいはソ連)そして日本がにらみ合う国際政治の波の中で、45首目

海は霧 見えないけれどこの町で憎まなければよそ者だから

岡本恵「盲霧」

と、この町がどのような性格を持ってしまったかが示される。
主体の政治的スタンスが示されるのではなく、主体という個人が政治という濁流に吞み込まれていること。それがほかならぬ成長期の眼にどのように見えるのか、それとも「見えない」のか。

「盲霧」

その「見えなさ」だが、作中に何度も霧が登場することはこの連作の特徴の一つに思う。霧は本来視界を遮るものだが、タイトルにはそれに加えて「盲」が加わっている。その意味を考えた。
この連作は、土地や他人のことを語っていながら、実はずっと主体自身のことを語っているのではないか。というのも、主体は子供の終わりという時代にいて、たくさんの物事が見えてきて、だからこそかえって見えない、そのことを「霧」などを使って語り続けているのではないか。

たとえば、31首目から35首目において語られる殺人事件の顛末。これはこの連作の中にあることで大きな意味を持つ。すなわち、これも大人となった主体が後日語っているというよりも、子供から大人への時期にいる主体自身が語っているように捉えてもいいように思う。そんな時期にいる主体には、なぜ殺人事件がそのような顛末になるのか、人間はなぜそのようであるのか、がわからない。だから、「花火」(31首目、35首目)と思ったり、「うす桃色の霧」(32首目)と思ったり、「濁流」(34首目)という感覚的な表現が出てくるようにも思う。
きっとこの殺人事件がもっと幼い時代に起きていても、もっと大人になってから起きていても、主体はこのように語らなかったと思う。

主体にとって、第二次性徴は社会的に非常にネガティブなものとして見えているように感じる。その時期は、主体にとって「終はりのやうに」捉えられる(6首目)。そもそも、主体たちに否応なくやってくる性的発達に対し、大人たちは性を隠したり否定的に捉えて見せたりしている(5首目、19首目)。そのような矛盾した状況からして、主体は「見えなく」なっているのではないか。43首目の「受胎」はその文脈でも捉えることができると思う。

前述の殺人事件を含めて、連作中に死のモチーフが繰り返し出てくる。主体は、死んでいく人、死にそうな人、死ぬかもしれない人に囲まれている。そして、26首目

海風に曲がる低木叩かれて大きくなれるものは少ない

岡本恵「盲霧」

主体は子供時代の終わりにいるが、まだ大人にはなれていない。なれるかもまだわからない。
その中で、生きている限りこれからも主体は現実に巻き込まれ、時間は過ぎていくことだろう。

だけれども、だからこそ、この主体にとっての今はかけがえのない時間なのではないだろうか。この「今」の「見えなさ」は不快だけれども、抱きしめなくてはいけない。そのように想像した。

「盲霧」は、客観的な意味での霧というよりも、幼さの終わりにいる主体にとっての主観的な霧として大きな意味があるのかもしれない。

「父」

また、そのような状況でこそ、主体の「父」の存在が大きく感じられる。
どうしようもない現実が主体の身体を変えていくなかでも、父は「絵本に暮らす王子のやうに」(24首目)主体に優しくしてくれるし、「海鳴り」として守ってくれる。(36首目、40首目)
そして、大きな政治の力が押し寄せても、「父」は

煙立つ火のあるものを焼く父と焼却炉だけ見えてゐる、霧(4首目)
アメリカの野蛮を父は繰りかへし大きくなつてゆく波の音(15首目)

岡本恵「盲霧」

と、しっかりと自分の見解を持っているし、「世の中を良くするビラ」を配るという行動にも出ている(29首目)。そのような姿は、濁流にも呑み込まれない大木のような力強く頼もしいものとして主体の目に映っていたように感じられる。

「父」を見る主体の目線の切実さ。その点も「盲霧」の特徴であり魅力であるように思う。

感想まとめ

これまで書いてきたような感じで、「盲霧」は、読めば読むほど味わいが出てくる作品だと思う。そんな作品はとても貴重なものだと思う。
土地の持つ固有性だけでなく、主体という個人の固有性。そしてその人生における特定の時期の、孤独に育てられる感受性。それらをとおして、読者である僕は読みながら、大人としての自己を照らし返される気もした。

「盲霧」の中の作中主体は、どこか自分を抱きしめている気がする、というよりも、自分を抱きしめていてほしい。と、僕は勝手に思ってしまった。
もちろん、これは特定の土地に特定の時代に生き「ている」主体の話であり、読者である僕はあくまで外部にいる。無責任に同一化することはけっしてできない。
だけれども、この特定の主体は、もしかしたら僕だったかもしれないのだから。

第六回笹井宏之賞選考座談会への批判

・まず、これを書かないとフェアじゃない可能性があるので書いておくが、僕は元から岡本恵さんの短歌のファンであるし、岡本さん(「朧」名義)と共作で短歌のネットプリントを発表したりもしている。
・ただ、今そのことを書いたのは、フェアであるためであり、今から書くことはあくまで短歌への批評のあり方について、短歌への愛と魂への愛のために、短歌を詠む末端の一人として、一つの意見として書くものである。
・当然ながら、短歌に関する「批判」として書くものであり、選考委員に対する攻撃や悪口という意図はない。ぶしつけではあるが、僕の文章が適切な批判でなかったり、批判の範囲を超えている場合は御指摘をお願いする。
・僕は「盲霧」に登場する個々の出来事や人物について、それが事実なのかは知らない。

「作り物っぽさ」について

ある作品を前にして、読者がある期待を前提として「期待に沿わない」と訴えるならば、その期待がそもそも正当なものだったのかも問われるべきだ。
第六回笹井宏之賞選考座談会の「盲霧」に関する部分(『ねむらない樹』vol.11 62頁~)を読むと、選考委員の一部から、連作の内容となっている事実や人物について「作り物っぽい感じ」や「本当にいた」かどうかに関する言及があり、それについて疑問を感じた。(以下、これらを便宜上一括して「事実っぽさ」の問題と呼ぶことにする。)
もちろん座談会という口頭で話した内容を文字にして読む僕たちには、ニュアンスが歪められて伝わりがちというのもあり、話者の意図を測ることに難しさはあるので、慎重に論じていきたい。まずは選考委員の発言のうち関連部分を抜粋して辿っていく。

西原理恵子の漫画っぽいというか、歳下の男と逃げたお母さんとか、悪い男が漁師の妻に近づくとか、人物が書き割り的な感じは否めませんよね。(中略)その記号っぽさにはちょっと乗れないかなって思ったのと、途中でなぜか殺人が起きたりして、歌が物語に奉仕しすぎてるかなと思った

山崎聡子

確かにストックキャラクター的な登場人物が多いきらいはあるんですけれども。(中略)これまでがストックキャラクター的なものが多かったので、台湾人の歯科医は「なんかこれ、本当にいたんだろうな」と不思議に思えてしまった。(中略)殺人犯のくだりについては、僕もちょっとやりすぎかなと思いましたがね。流れの中では浮いてしまっている。それこそ起承転結の転の部分として入れようとしたんだろうけれども、そこはいらなかったかなと思えましたかね。

山田航

蛇足ではないかという意見もある殺人事件のところも、調べたら一九九一年にそういう事件があったと出てきて、(中略)皆さんご指摘のとおり名前がついた登場人物のせいで書き割りっぽくなってしまってるところがあって、逆に作り物っぽい感じが出てしまってるのかなっていうところ

小山田浩子

登場人物について、山崎さんの「書き割り的な感じ」を受けて山田さんの「確かにストックキャラクター的」が出てきて、小山田さんでまた「書き割りっぽくなってしまってる」と出てくる。
作中の殺人事件のくだりについては、山崎さんが「歌が物語に奉仕」している例として挙げ、山田さんが「やりすぎかな」「いらなかったかな」と構成上の問題として批判したあと、小山田さんが実際にそのような事件があったという説を紹介する。

登場人物についても殺人事件についても、山崎さんや山田さんはまず着眼点や表現方法、連作の構成等の問題として捉えているようには読める。ただし、山田さんは「これまでがストックキャラクター的なものが多かったので、台湾人の歯科医は『なんかこれ、本当にいたんだろうな』と不思議に思えてしまった」と発言していて、反対解釈をすれば「ストックキャラクター的なもの」は「本当にはいなかったもの」と思える、ということを前提にしているように解釈できるし、その解釈が自然だと思う。実際、小山田さんは山崎さんと山田さんの発言を踏まえて、「書き割り」から「作り物っぽい感じが出てしまっている」と、慎重ながらもより直接的な表現で「書き割り」→「事実ではなさそう」という論理をたどっているし、殺人事件についても事実である説を紹介していることからも、歌の内容の事実性という文脈が見えてくる。

それから、後述するが山田さんは「盲霧」中の登場人物は操作可能であるという前提で話しているような箇所があるから、一貫性を持って解釈するならば山田さんは「ストックキャラクター」について「(読後感として)事実ではなさそうに思える」からさらに数歩進んで「(実際に)事実ではないのだろう」というところまで行っているように感じる。

ちなみに、その後大森静佳さんも登場人物の描き方等について「書き割り」に近い言葉で批判しているように思うが、「事実っぽさ」については触れていないように思える。

上記のように、歌の内容が「書き割り的である」等といった理由で、その事実性に話を持っていくことには問題を感じる。

第一に、そもそも歌の内容が「事実かどうか」は作者の事情であって作品の内容ではなく、したがって「事実かどうか」を基準とした「事実っぽさ」を作品の評価に関わらせるのはおかしい。今回の笹井宏之賞自体、作者のプロフィールを伏せて作品のみで評価する、という選考方法(『ねむらない樹』vol.11 41頁参照)をとっているので、作者の事情に関わる事柄を選考の議論に使うのは矛盾である。
僕はまだ笹井賞には応募したことはないが同様の選考方法をとる賞には応募したことがある。応募する側からしたら、「作品の中身だけで評価してもらえる」と期待するのが自然であり、作品に描かれた事柄が事実かどうかを憶測で語られるのはその期待を裏切ることになるのではないか。逆に、選考において事実性の考慮をするなら、作者のプロフィールまでセットで選考する方が筋は通る。(そうしろ、というのではない。)

第二に、「読者が作品を読んで感じたこと」と、「作者が現実に体験したかどうか」は論理的に無関係であり、前者から後者を類推するのは土台無理である。
加えて、現実には典型的であったり「いかにも」な特徴を持った事象や人物はいくらでも存在する。現実は都合よくリアリティを持ってはくれない。仮に読者が「人物描写が書き割り的だなあ」と感じたとしても、それは「作り話っぽさ」に繋がらないはずなのである。

それに関連して第三に、読者が仮に「書き割り的だから作り話っぽい」と感じたとしたら、それはつまり読者の中に「事実はこのようであろう」という一種の期待があらかじめあり、その期待を外から一方的に押し付けているにすぎないのではないか。要するに、事実に対する偏見なのではないか。

ここで、去年の短歌研究新人賞の選考座談会(短歌研究社『短歌研究』2023年7月号)を読んでみる。
大賞を受賞した平安まだらさんの「パキパキの海」についての話の中で、斉藤斎藤さんが「全体的に、沖縄生まれで沖縄に住んでる人がいくら現代の人だとしても、ここまで外目線で沖縄を見るのかなという疑問はある」とした上で、

見学のシムクガマから出たあとの陽光に手をかざすしばらく

平安まだら「パキパキの海」

について「沖縄に生まれ育った人が、このタイミングでシムクガマを見学しますかね?」と疑問を提示し、他の歌も例示した上で「この連作自体が「パキパキの写真」みたいに、ちょっと外からの目線に配慮しすぎな気がしてしまって。」と発言。それに対して、米川千嘉子さんが以下のように言っている。

沖縄の中の人だったらこうは見ないだろうというのが、それこそが先入観なんじゃないかなと思いますけどね。シムクガマの歌も、前から住んでいる人がいま頃見学にいくかということは、それは外からの目線で。

ここでは僕は米川さんの捉え方に賛同する。

話を「盲霧」に戻すが、特定の地域を舞台にしているという点において、「パキパキの海」の問題と「盲霧」の問題は共通し得る。またそれとは別に、そもそも読者は原理的に、作者と作品との間の関係性からすれば外部である。

「盲霧」に関して、読者が「書き割り的」という作品に対する評価のみから、作品の事実性に言及するのは、ときとして事実への偏見を含んだ目線を、作品や作者に向かって押し付けることにつながりかねないのではないだろうか。

人物描写等に関して「書き割り」「ストックキャラクター」等と批判される論点は結局、着眼点や表現方法、臨場感、意外性等の問題として言われることはあり得ても、現実に起きた事実かどうか、「作り物っぽい」かどうかとして言われるべき問題ではないのだと考える。(ここでは関係ないが念のため書いておくと、僕自身はそもそも「盲霧」の感想として登場人物が「書き割り的」という印象を持たなかったし、それは選考座談会を読んでも変わらなかった。)

山田航さんの「佐藤と千葉くんが絡むような歌があってもよかったんじゃないか」という発言について

「盲霧」に関する選考座談会での発言に関してもう一つ、触れておきたいことがある。

山田航さんは、前述のように「台湾人の歯科医」と殺人事件について触れたあと、次のように語る。

それよりも、こんなにたくさん登場人物を出しているんだから、そこでどういう繋がりが生まれていくか、みたいなものがあってもいいかなと思いますね。一回きりの登場人物ではなくて。「シンナーを(略)」の佐藤と「千葉くんは(略)」の千葉くんが絡むような歌があってもよかったんじゃないか、みたいに感じましたが。

『ねむらない樹』vol.11 64頁

作中のそれぞれ別々の歌で登場する「佐藤」と「千葉くん」について、「絡むような歌があってもよかったんじゃないか」という部分に疑問を持った。

まず、この発言には、「佐藤」や「千葉くん」といった登場人物が、作者にとって操作可能なものだという前提があると思われる。
そしてまたその前提には、この連作はいわゆる「虚構」であるという憶測があるように思う。実際、前述のように、山田さんは前の箇所で「これまでがストックキャラクター的なものが多かったので、台湾人の歯科医は「なんかこれ、本当にいたんだろうな」と不思議に思えてしまった」と発言しているので、文脈的にも裏付けられるように読める。

しかし、作中には「佐藤」と「千葉くん」が絡み得る根拠はないし、仮に作者が実体験や事実性をもとにこの連作を描いているとした場合、「佐藤と千葉くんが絡むような歌があってもよかったんじゃないか」という発言は、作者の心にとっての真実に反する提案をあえてしていることにならないだろうか。
なぜなら、その場合には「佐藤」や「千葉くん」のそのような登場の仕方は作品と作者にとって少なからず必然性があるだろうからだ。その点、単に抽象的に「登場人物同士の絡みがあってもよかったんじゃないか」というのとは意味合いが違う。

もちろん、短歌には実景や虚構と括られるようなさまざまな歌があり、それぞれ自由に詠んでよいと思う。作者自身の魂の必然性から作られた歌もあれば、ゼロから架空の世界を作り上げてできた歌もあるだろう。
そういった多様な短歌という領域の中でも、事実への魂の重みを持って作られた短歌は少なくとも一定割合存在する。その重みへのリスペクトはあっていいのではないか、と思う。

読者には作者側の事情がわからない以上、「こういう設定だったらいいんじゃないか」と、たとえば登場人物のような重要な部分について操作可能なことを前提とした発言は、作者が作品に乗せた魂を軽んずることにならないだろうか。

短歌は読者がいないと成り立たない(作者自身がただ一人の読者である場合を含む)が、それと同時に、作者がいなくても成り立たない。

笹井宏之賞にしても、大変な選考作業にあたる選考委員の方々には頭が下がるし、選考座談会における各作品への評は本当に勉強になる。そこにはたくさんのものが懸けられていると思う。
でもそれと同時に、当然ながら応募者たちもたくさんのものを懸けて作品を送っているはずだ。僕自身も短歌を詠む者として、互いにリスペクトを大切にしたいと思っている。

その観点からして、率直に言って上記の発言はされるべきではなかったと思う。

終わりに

改めて、僕にとって岡本さんの「盲霧」は本当に大好きな作品になった。勝手ながらずっと心の中に大事に抱き続けると思う。
選考座談会も非常に勉強になった。もっともっとよく短歌を詠んで読めるようになりたい。
岡本恵さん、山崎聡子賞の受賞、おめでとうございます!!!
素敵な作品をありがとうございます!!!!!!!!!!

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