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渋沢栄一 明治の経済にこの人あり

今週末から大河ドラマ、「晴天を衝け」が始まりますね。
その主人公は渋沢栄一です。

でも渋沢栄一って何をしたの?
次のお札になるらしいけれど?

という人は多いと思います。本当に一言で彼のことを言い切ると、「激動の明治で日本の経済を作った人」というのがしっくりくるのではないかと思います。そんな彼の生涯と残した言葉からどんな人物だったかを僕なりにまとめて行こうと思います。

●江戸末期 時代の変化に揺れ動く

渋沢が生まれたのは、江戸時代の末期です。藍染や野菜、米などを生産する農家の生まれです。ですが、ただの農家ではありません。かなり幅広いことをやっているところからかなり裕福な農家でした。
裕福な農家ということは、渋沢家自体がかなりの経営をする立場にあったと思われます。そこで彼の経営センスの下積みがあったと言われています。14歳という若さで藍の仕入れを任されていたこともあり、そこで商売の資質となる蕾(つぼみ)を作ったのでしょうね。

渋沢は、従兄弟とその後、江戸に出るのですが、そこでまた運命に翻弄されていきます。江戸に入った塾で「尊王攘夷」という思想を学ぶのです。
「尊王攘夷」とは、何か?この頃はペリーの来航が大きな歴史的出来事となっていますが、それ以前にヨーロッパの国々も次々と日本に通商を求め、やってきた時代です。そんな諸外国を日本の人たちは最初、かなりの脅威だと認識しました。またその気持ちは天皇も同じです。なので、怖い外国の人たちからこの国の頂点である天皇をお守りし、外国人にはとりあえず力でお帰りいただこうというのが、「尊王攘夷」の思想でした。
渋沢とその従兄弟は、「尊王攘夷」の思考が強い長州藩らと合流しようと家族に迷惑がかからぬよう、勘当されたという体裁をとって、京都へ向います。

なぜ京都に向かったかというと、その時の京都は「尊王攘夷」掲げる長州藩と、「幕府守護」を掲げる薩摩・会津藩が構える日本の2大思考の対立拠点だったのです。この時の長州は、ヤンキー同然で、己の主張を通すため、天皇をお守りするためなら武力にモノを言わせるような危険因子のような状態でした。当時の若者にとって、そういう長州は、新しい時代に憧れる若者の目を輝かせる存在であったかもしれません。渋沢たちはその長州に合流すべく京都に向かうわけです。

しかし、渋沢たちが急いで駆けつけたにもかかわらず、長州は、八月十八日の政変と呼ばれる事態により京都を追放されました。これは、前述したように、「幕府守護」という2つの藩がいったん、長州に勝って彼らを追い出したクーデターです。

それ以前にも武装蜂起を企てては従兄弟に説得されたりと、この国のために何かしたいという渋沢の想いは成就しません。
京都で途方にくれる渋沢に、知り合いの縁で、なんと次の将軍候補と名高い徳川慶喜の側仕えになります。すごい運命ですね。
この180度の転換に驚きです。
慶喜に仕えてまもなく、彼は将軍となります。幕臣となった渋沢は、将軍の名代としてパリ万博へ出向きます。そこでいろいろな西洋の世界を目の当たりにするのです。やっぱり大農家の息子なだけあって海外のコネクションも築いていた渋沢はここで万事、これから為すべきことの土台を作り上げます。

●大蔵省の役人になる!!

帰国後、日本は様変わりしていました。戊辰戦争は終わり、慶喜は謹慎処分となって静岡に蟄居していました。外国にいた渋沢は連絡は聞いていたでしょうが、将軍の変わりように気持ちがついていかなかったことだと思います。将軍に「これからはお前の道を行きなさい」と言われますが、渋沢は静岡藩に止まり、静岡の発展に尽くしていきます。

その功績が新しい新政府の大隈重信の目に留まります。
君は新しい政府の役人になってこの世のために尽くして欲しい!!
そう説得された渋沢は大蔵省の役人となって手腕を発揮していく道を決めます。しかし、当時の日本の財政は火の車ようで、逼迫した財政運営の影響もあってか、予算編成で大隈や大久保たちと対立。大蔵省を早々に辞職することになるのです。

●実業家へと転身

それから渋沢は自分がすべきことを見つめ直しました。
そして数々の事業をつくっていくのです。
その中で大きなものがまず一つに銀行があります。
銀行第一号を設置してその後、日本の数多くの銀行の設立に携わります。
他にも保険会社を作ったのも渋沢栄一です。
この頃の保険は、海上保険が主です。ヨーロッパから始まったもので、船が沈んだ際にその失った財産を保証するという考えを日本で実践したのだと思います。他にも東京ガスや証券取引所など様々な設置や運営に貢献していきました。関わった会社はなんと500社以上とも言われます。
彼の精神は明治のはじめにあってこれまでの激動を乗り越えて開花したと言えるでしょう。

●渋沢栄一の人柄

渋沢が残したと言われている言葉があります。
それが「夢七訓」です。
本人が語ったという正確な証明がないという話もありますが、そう言い伝えられています。


「夢なき者は理想なし
理想なき者は信念なし
信念なき者は計画なし
計画なき者は実行なし
実行なき者は成果なし
成果なき者は幸福なし
ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず」

他にも

「人は死ぬまでに同じことをするものではない。
理想にしたがって生きるのがいいのだ。」

「もうこれで満足だという時は、
すなわち衰える時である。」

など様々な言葉を残す渋沢栄一。
彼はきっと本当の意味で誰かのためになることは必ず自分のためになる!!という思いがあったのではないでしょうか?

そんな彼を見て、困難にあってもちゃんと志をもってさえいれば前に進んでいけるというそんな気持ちにさせられました。
渋沢の人生を思いながら、自分の励みにしていきたいものですね。

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