歴史が語りかけること(1)

歴史研究者は現在に繋げる努力をしているだろうか。
大河ドラマで取り上げられる人物像を追うと作り手の思惑が見え隠れするが、自分の今、自分の生き様にまで降りてこない。戦争を含む歴史は今の私たちに何を語りかけているのだろう。

ヒットラーの映画をコロナウィールスに結びつけたパロディー版が複数出回りあちこちに拡散されている。ドイツに住んでいる者にとってまったく受け入れがたいことである。 ヒットラー政権はドイツの歴史の大きな負の遺産であり、この歴史が繰り返されることがないように学校教育のカリキュラムに組み込まれ学んでいる。
私が教鞭をとったギムナジウムでも学年を追って必ず取り上げられ、上級になると「あなたならそのような政権下ではどう行動をとりますか?」と、とかく現代でも社会問題になる人種差別、格差問題などに絡み合わせ自分独自の考えや意見を導き出す。歴史に刻まれたヒットラー政権はドイツではいまだ過去のものととらわれておらず、国民一人ひとりに問いかけている大きなテーマなのだ。それを軽はずみにパロディー化して人々に笑いをとどけようとする行為は容認できるものではない。
 ヒトラー政権「第3帝国」も第2時世界大戦もドイツでは終わっていない。2度と繰り返してはならないと教育の場も政治や経済界も、そして一人ひとり「個人」が噛みしめている永遠の課題だからである。
第1次・第2次世界戦争、満州事変、朝鮮戦争などなど日本にも過去におさめきれない重い歴史がある。そして度重なる災害。どれひとつとっても今問われるのはわたしたち「個人」ではないだろうか。 当事者は「忘れられない」出来事として継承していくことを願いながら時とともに色あせていく現実に直面する。
ではコロナウィルスに脅かされ緊急事態にある今の日本はどうか。医療関係者・感染者などが差別されるとニュースで伝えられるのを聞いて「なにもかも人事」と「当事者」の境界線はどこにあるか聞きたい。私は「人事と思うこと」は加害者の行為に等しいと思うが、今日の加害者が明日の被害者になることをどうやって学ぶのか。「わたし」が「あなた」が問われている。

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