小野龍光と成田悠輔

小野龍光、突然ネット上で脚光を浴びた名前。
17Liveの元CEO、ジモティなど数々を企業したIT業界の中心だった人が
2022年年10月にインドで出家して仏門に入り「小野龍光」という僧侶になる。
 
ReHackというYouTubeの動画に目が止まった。
この二人の会話の何に惹かれたかを述べたいと思う。
(ReHackのMCの元テレビ東京のプロデューサーはこの二人の会話を全く理解していなかったので、ここでは言及しない。)
 
成功を極めた実力者が「すべてを捨て仏門に入る」というストーリーに特に驚きはない。というより、よくぞその境地に辿り着いたと拍手を送る程度なのだ。
興味深いのは成田悠輔氏がネット社会の限界と行末を、小野龍光を仏教に導いた仏の教えとどう関わるのか、探ろうとした問いかけだった。
 
キリスト教文化の中に生まれ育った私には仏教の教えは知識でしか理解できないのだが、
宗教である以上各自が信じる「幸せ」があるだろう。生きる意味、価値、その物差しを仏教に見出した小野僧侶に誰がどのように影響を受けたり、賞賛したり、驚異の眼差しで見るのか。それなりに関心はある。
私が注目したいのは、彼が何を成し遂げ、何を見出し、なおかつ仏門という道を選んだか、その(本人いうところの)前世の実態であり、ネット上で騒ぎ立てるメディアの世界もそこにしっかり論点を置くべきだと思う。成田氏はReHack上で見事にそれを言葉として可視化した。
人間の価値観(お金・名声・SNSの良いねボタン)に物差しを当て上限・下限を決めたら世の中はより満足した社会になるのか。
それとも人間の持つ業欲(?)は価値観などとは関係なくひたすら「もっと!」「更に!」を追求して終わりのない(自分との)闘いに明け暮れるのか。
アナログの世界に生まれ現役を駆け抜けた後期高齢者の私はそもそもネット、デジタルの世界は理解できていない。とは言えSNSの世界の恩恵は受け、確実に現代社会の様変わりに気づいている。しかし自分と向き合い、他との関係にフォーカスした時の物差しが多様化して、「今」がどこに向かっているのかわからなくなってきていると実感する。
しかしドイツの時間はゆっくり進み、自分の歩みは見つめられるが、久々に帰国した時の今の日本はただただ「慌ただしく」マイペースを見出すのが難しいと感じた。自分を見失う前にドイツに戻りまたゆったりとした空間に息をついている昨今である。(2023年4月4日記)
 
 

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