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ある週末サーファーの記録016 ポンタ・ド・オウロ 4

 2輪同時パンクの日は、結局その後さらに歩いて、小さな学校のような場所に辿り着いた。そこに一つだけ設置されていた無線の固定電話で、マプトに電話することができた。知人が手配するドライバーにマプトからタイヤを2本持ってきてもらい、なんとか帰宅できた。早朝暗いうちに家を出て、ただ家に帰ってきただけで夕方近くになっていた。

 これは数あるポンタ・ド・オウロ行で最もスリリングな体験だった。ただ、毎回何かしらの小さなドラマがあった。

 ある「ポンタ」からの帰路、「轍地獄」でまた道に迷った。たまたま重そうな荷物を運んでいる地元のお母さんとすれ違った。
 「道に迷ってしまいました・・。マプトの方角を教えてください!」
 私がポルトガル語で尋ねる。
 「%$☆#▲※!」

 返ってきたのはポルトガル語ではなく、現地の部族語だった。全く分からない。身振り手振りで何度も「マ・プ・ト!」「どっち!?」と聞き返す。
 「♪*$#€¥〆!・・」
 お母さんも身振り手振りを交えて何か言ってくれている。ただ、分からない。

 モザンビークは1975年までポルトガルの植民地だったこともあり、ポルトガル語が国の公用語になっている。ただ、日本の二倍の広大な国土に40もの部族が散らばっており、それぞれの言語も使っている。そのことは聞いて知ってはいたが、首都から100km圏内で公用語が全く通じなくなってしまうとは驚いた。

 車の窓越しに2、3分はお母さんの熱心な説明を聞いていたろうか。何一つ分からない中でいよいよ諦めて発進しようかというところで、何か聞き慣れた音に気づいた。

 「△%☆#※!・・コ・カ・コーラ・・*$#€¥〆!」

 ちょうど私の座席のドリンクホルダーに飲みかけのコーラの赤い缶があった。現地語を全く解しない私でも「そのコカ・コーラをくれ」と言われているのは分かった。私はお母さんに感謝を伝えつつ、コーラを渡してその場を去った。国の公用語を話さない人でも大好きな「コカ・コーラ」は、まさに世界語だと感じた。

 毎回ヒヤヒヤしながらなんとか辿り着く「ポンタ」であったが、結局、土日に一泊かけて行く形に落ち着いた。ホテル代がかかるし2日がかりだと手軽ではないが、やはり片道4時間強を一日で往復するのは肉体的、精神的にキツイものがあった。また、朝方を過ぎると風が出てきて波が崩されてしまうことも良くあった。

 ある日曜の朝だった。前日マプトを出発してホテル泊。夜明けとともに身支度をして、砂浜を500m程歩いて岬(「ポンタ」)の先端に向かう。快晴。オフショアの微風が吹いていた。岬の先は平たい岩棚だ。岩棚が途切れる辺りから美しいライトの波が規則的に割れていた。サイズは胸から肩くらい。このポイントはサイズが上がると強烈なカレントが発生してゲッティングアウトが難しくなるが、これぐらいならなんとかラインナップに出られる。

 人の手が付いていない、限りなくクリアな水を湛えるインド洋に一人漕ぎ出す。タッパーと海パン。ほど良く生温い海水が心地よい。ビーチには準備をしているサーファーが一人。あとは誰もいない。

 その日の何本目かの波が、私の人生で一番上手に乗れた波だった。速いテイクオフからショルダーの張った綺麗な波を滑り降りる。ボトムターンから波の上に上がって行く。リップにボードを当てて素早く切り返す。再度ボトムに深くボードのレールを噛ませ、波上部に登る。2回目のリッピングに成功した時、遅れてパドルアウトしてきた南ア人サーファーとすれ違う。「フォー!」と叫んで親指を立てる彼に、ライディングしながら笑顔を返す。

 自分がボードを操作するというより、波が私とボードを操って、自然にそのラインを描かせてくれた感覚だった。そこから十数年。もう一度あの感覚が味わいたくて、今も海に通っている。


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