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ある週末サーファーの記録017 ポンタ・ド・オウロ 5 完

 先頭はいやだ おまえのバックを走りたい
 風はやさしくないし 心も乾く
 水たまりの中に 緑色の瓶が浮かんでる
 なかに残った茶色の液体 飲みたい 
 コカコーラ コカコーラ
 モザンビーク ロードレース
 モザンビーク ロードレース

 モザンビークには3年いた。思い返しても、つくづく良い出会いに恵まれたと思う。その一人は冒頭の詩を作詞した小島センセイ。内科のお医者さんだったセンセイとは20歳以上離れていたが、やたらとウマがあった。毎晩職場から帰宅する前に、当たり前のようにセンセイのお宅に寄って、図々しくも奥様の美味しい手料理をご馳走になっていた。センセイとは、ビリヤードをしたり、モザンビーク風焼肉を食べに行ったり。よく遊んだ。ポンタ・ド・オウロにも一緒に行った。

 センセイはときにふらっと旅に出て、夜に旅先から電話を架けてくることがあった。
 「詩を作ったので聞いてください」
 そう言って、電話越しに冒頭の詩を朗読してくれた。私が好きな「ブランキー・ジェット・シティ」の詩の世界観に寄せて作ったらしい。センセイがモザンビークから帰国するときにこの詩に曲をつけて送別の歌を送った。ただ、ウクレレで曲を付けたので、ブランキーではなくビギン風のメローな曲になってしまった。

 もう一人は当時22歳でモザンビークにやってきた、辻。彼はガタイの良い元野球部員。体力と運動神経には自信があるという。サーフィンもやってみたいというので連れていった。1回目のサーフィンではテイクオフには成功しなかったのではなかったかと思う。ただ、彼はすぐに「また行きましょう!」と言ってきた。ポルトガルで出会ったコリンと良く似た反応を見て、「あ、ハマるな」と思った。

 サーフィンに「ハマる」人と「ハマらない」人の違いはなんだろう。今も分からない。ただ、私はハマったし、結果的に辻もハマった。何しろその後辻は「ポンタ・ド・オウロに最も行った日本人」(自分調べ)だった私の記録を塗り替えた男になった。

 私たちの共通点を挙げるとすれば、海から上がるときに、いつも少し後悔している点かもしれない。
 「今日はちょっと波が小さかったな・・」
 「今日は波は良かったけど、人が多かったな・・」
  「あの波はもう少し長く乗れたな・・」
  「しかし、サーフィン上手くならないな・・」
 そんな風に納得いかないことばかりの気がする。

 「今日はサイコーだったな!」
 そんな風に海から上がってくることは一年に一度あるかどうか。「まあ、波乗りなんてそんなもんさ」と自分に言い聞かせて、後ろ髪引かれるような思いで海を後にする。だからまた、すぐに海に行きたくなる。

 私たち二人それぞれがモザンビークを離れてからも、辻とはいろいろなところにサーフトリップに行った。ポルトガル、メキシコ、モロッコ、インドネシア。四国。二人でサーフィンをすると、お互い「じゃあ次が最後の一本で」の応酬になり、二人ともなかなか海から上がろうとしない。彼と行くトリップはいつもどこか消化不良なのだ。だからまたトリップに行きたくなる。

 2024年現在、対岸のカテンベまで橋ができ、マプトからポンタ・ド・オウロまで舗装道路でわずか1時間半で行けるようになったと聞く。あのスリリングなロードレースはもうしなくて良くなったが、いつか辻とはもう一度「ポンタ」に行って、最高の波に乗りたいと思う。きっとそのときも、私たちは完全には満足しないのだろう。


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