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ある週末サーファーの記録027 プライア・デ・イタグアレ 6 完

 「落ち着け」と自分に言い聞かせる。沖に流されてもどこかで岸に戻る流れに乗れるはずだ。真っ直ぐ左側に進めなくても沖の方から回って行けば良い。もう一度ボードに腹這いになる。岩場から離れるよう左方向に、そしてやや沖の方に漕ぎ始めた。

 パドリング。パドリング。パドリング。
 パドリング。パドリング。パドリング。

 恐る恐る後ろを振り返ってみる。全く岩場から離れていない。これはまずい。離岸流から逃れられない。

 今まで離岸流に捕まって怖い目にあったことは何度かあった。ただ、そんなときでも周りにはサーファーがいた。今回は海上にも砂浜にも誰もいない。とにかくパニックに陥らず、体力を温存しながら岸と並行にパドリングをするしかない。

 呼吸を整えて、力を込めず一定のストロークを心がける。

 パドリング。パドリング。パドリング。
 パドリング。パドリング。パドリング。
 パドリング。パドリング。パドリング。

 何分漕いだろう。1時間にも2時間にも感じられた。遠くに見える岸との距離は全く縮まらない。その岩場には特殊な磁力が働いているのかとさえ思えた。

 私はパドリングを諦めて泳ぎ始めた。これをやり始めたら自分がパニック状態にあると分かりつつ、他にできることがなかった。右足首とリーシュコードで繋がっているサーフボードを引っ張りながらストロークを始める。

 クロール。クロール。クロール。クロール。  
 平泳ぎ。平泳ぎ。クロール。クロール。

 どんなに泳いでも浜に近づかない。体力は限界に近づいていた。遭難。その言葉も私に近づいていた。

 「こうなったら逆方向、岩場に近づいてみるか・・」
 岩場は危険であり、沖への強いカレントがある。普段はそんなことはしないが、緊急事態だ。もしかしたら岩場から丘に上がれるかもしれない。

 ブラックホールのように私を吸い込もうとしていた岩場だ。すぐに至近距離に縮まった。赤褐色の巨岩にはひっきりなしに波がぶつかり、白い泡を作っている。

 数メートルの距離に来ると、急峻な岩にフジツボのような貝類がビッシリとへばりついているのが見えた。危険な場所だ。大きい波が来ればボードもろとも岩に打ちつけられてしまうかもしれない。

 「死に物狂い」

 私の人生で最もその言葉が適当な状況だった。躊躇なく右足首からリーシュコードを外して、ボードを捨てる。

 小さめの波が来て潮位が上がった瞬間にがむしゃらに泳いで岩に両手を引っかける。水に浸かっている部分の岩に足も乗った。両手足の指にありったけの力を込めて滑る岩に張り付く。両膝も使いながら四つん這いになって一気によじ登る。次の波が来て岩から振り落とされる前にその急勾配をできるだけ高いところまで登る必要があった。一心不乱。ただ上を目指した。

 木が生えているあたりまで登り切って尻餅を付いた。「助かった・・」小刻みな体の震えが少し落ち着くまでそのままの体勢でいた。流したショートボードはもうどこかに消えていた。

 密林の中を木と木の間を縫って砂浜の方向に向かう。急坂を下って砂浜に降り立った。私の様子に気付いたブラジル人サーファーが駆け寄ってきた。波をチェックしていたときに林から突如出てきた私を見てさぞ驚いたろう。
 「どうした!大丈夫か?」
 彼は上から下まで私をまじまじと見ながら聞いた。両腕、両脚が切り傷だらけだったので無理もない。岩によじ登った際にフジツボや岩で切ったり擦ったりしたものだった。
 「ボードはどうした?取りに行ってやろうか?」
 流れがすごいからやめといた方がいいと伝えた。

 車に戻って妻に電話した。何が起きたかすぐに聞いて欲しかった。2人目を妊娠中だった彼女に、パドリングしていたときに、3人を遺していけないと思ったことを伝えた。海から上がってすぐに妻に電話をしたのは、後にも先にもこの時だけだ。

***

 翌週末、私はサンパウロのサーフショップにいた。流してしまったショートボードの代わりとなるボードを探しに来ていた。新しいボードを決めて店員にフィンを付けてもらっているときに、先週末の出来事を話した。
 「先週、イタグアレでサーファーが流されて死んだよ」
 店員の言葉に耳を疑った。私が流されかけた翌日、本当に流されて亡くなった人がいたという。丘をぐるっと回ったところにある反対側のビーチで遺体が発見されたらしい。

 その後、ブラジルを離れるまで、プライア・デ・イタグアレには一度も行かなかった。今も慣れているポイントでも、誰も入っていない時はできるだけ入らないようにしている。

 海は楽しい。ひとりでも。ただ、海は恐ろしい。侮ると酷い目に遭う。そう分かっていても気持ちが緩むこともある。そんなときは、イタグアレを思い出すようにしている。

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