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青空、どこまでも(1)

 僕がブータン第二の都市パロで初めて見たのは、朝日に照らされて輝くパロ盆地だった。町の中心部の丘にそびえるパロ城(ゾン)。それを取り囲んでさらに丘があり、丘に生えた角のように民家が建ち並ぶ。わずかな平野には田畑が耕されている。美しい光景だった。昨日、十五時間もジープに揺られた疲れも、ひざ掛け用毛布二枚で夜を過ごした寒さも、窓の外をのぞいた途端に跡形もなく消えてしまった。
「とうとう来たんですね、ブータンに」
 妻の里子も、隣で感慨深げな表情を浮かべている。
「そうだよ。ここが今日からの戦いの場だよ。僕たちを必要としている場所だ」

 日本の農業技術をブータンに伝え、ブータンの農業開発に取り組むこと。それが、海外技術協力事業団から言い渡された僕の任務だった。任期は二年。何度かヒマラヤを訪れたことのある僕だったが、いまだかつて二年間も滞在したことはなかった。しかも、最近まで国を閉ざしていたブータンだ。どんな人々が、どのように暮らしているのか。どんな食べ物があるのか。そして何より、今現在、どんな農業を行っているのか。まったくと言っていいほど情報がない。
 だが、不安ばかりではなかった。むしろ、出発の日、僕の心の大半を占めていたのは、溢れるほどの希望だった。大好きなヒマラヤ。大好きなブータン。そこに住む人々のために、自分が今まで培ってきた技術のすべてを注ぎ込める。僕にとって、これ以上の喜び、幸せはなかった。高地で作ったジャガイモのタネイモを低地に移し、収入を増やしたい。日本の稲を持ち込み、ブータンの稲を品種改良して、もっとたくさんの米を収穫できるようにしたい。柑橘類も、品種改良すればさらに味が良くなるはずだ。日本の野菜の良さも知ってもらおう。アイデアは、泉のように湧いてきた。

 そこは、インド人の巣窟だった。
「ブータンと長年の親交があるのはインドだ。インド人の我々こそが、ブータンの農業を発展させることができる。突然、それもたった一人でやってきた日本人の君に、いったい何ができるというんだ」
 ブータンの開発庁農業局。局長のローハン氏は、やたらと声の大きいインド人だった。ヒンディー語訛りの英語が、僕の足元を揺らすように響く。歓迎されていないことは火を見るより明らかだった。
 僕は大きく息を吸った。自分は、いわば日本代表だ。これくらいのことで怖気づいてはいけない。初めから負けを認めるようなことは、あってはならない。
 アームチェアの上でふんぞり返っているローハン氏を見すえる。ブータンの民族衣装であるゴに覆われた腹は、草木染めの布地が破れるのではないかというくらいせり出している。
「何でもできます。日本の農業は、世界中のどこの国よりも進んでいます。わたしにパロの農業指導をすべて任せていただければ、五年後には、農産物の収穫量を現在の倍にしてみせます」
 失笑が起きる。日本人の若造が無謀なことを言っている。そういう笑いだ。僕は奥歯を噛んだ。
「素晴らしい。やる気は認めるよ。だがね、そう簡単には行かない。農業は、人がブータンで生きていくための唯一の手段。ブータン人に君の考える方法を受け入れさせるには、相当な時間と根気が必要だ。覚悟しておいたほうがいいよ、ミスター・ニシオカ」
 ローハン氏の目が光った。
 思わぬところに敵がいた。本当に僕にできるのだろうか。ここにきて、心の隅のほうに溜まっていた不安が、突如として幅を効かせ始めた。
「必ず成功させてみせます。そのためにまず、農業局の試験農場を見せていただけませんか」
「は? そんなものはないよ」
「ない?」
 職員の一人が、すまなさそうな顔をした。
「耕作ができるような平地は、みんなパロの住人が所有しています。農業局が試験農場を作る場所なんて、どこにもないんですよ」
 農作物の改良テストも、新しい品種のテスト栽培も、技術者の育成も行なっていない。砂漠で道に迷ったかのような気持ちだった。農業局はこちらを敵視している。試験農場がなければ、改良テストやテスト栽培の前例もない。やるべきことが多すぎて、もはや何から手を付ければいいのか分からなかった。
 さあ、どうする? 余裕の消えた僕の顔を見て、ローハン氏がにやけている。こんなにブータンの農業が遅れているなんて、この人たちは今まで何をやってきたのだろう。本当にブータンのためを思っているのだろうか? 不安と同時に、怒りも膨らんでくる。
「……あるだけの資料をください」
 ゼロからの出発。大量の資料を抱えて、僕は農業局を後にした。

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