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青空、どこまでも(4)

 翌日は、ダイコンを植えるための畑の土作りから始まった。作業するのは、もちろん僕一人だ。
「ダイコンを植えるためには、種を蒔く十日くらい前に、六十センチほどの深さの深さまで土を耕す必要があるんだ。ダイコンは下向きに伸びるから、最初に、成長する『スペース』を作っておくんだよ」
 説明をすれば、彼らは一応うなずいてくれた。だが、僕の言葉が右から左に抜けているのは明白だった。
 鍬を振り上げるたびに、前日の疲れが残った筋肉が悲鳴を上げる。頭を空にし、機械的に鍬を振るう。どうにか畝二本をダイコン用に耕し終えると、僕は思わずその場にへたり込んだ。
 ブータンの六月は、一年のうちで最も暑い時期だ。それでも朝夕はセーターが手放せないが、日中はそれなりの気温になる。そんな時間帯に力仕事なんかすれば、文字通り滝のような汗をかく。キンレーくんとドレイくんはすでに日陰に退散し、ジャンペイくんだけが僕の傍についていた。
「休憩にするよ。午後は田んぼに水を引くつもりだから」
 ジャンペイくんから受け取った水筒を、頭の上で逆さにした。頭皮に冷たさが染みる。その気持ちよさは、疲れが水と一緒に流れていくようだった。
「あのさ、ケイジ」
 僕から空になった水筒を受け取ると、ジャンペイくんはそのままキンレーくんたちのほうへ去らず、僕に話しかけてきた。
「僕、手伝ってもいいかな。午後から」
 僕は驚いてジャンペイくんをまじまじと見つめた。からかっている様子もない。その表情は、緊張と照れ臭さが混じったものだった。
「どうしてそう思ったの?」
 思わずそんな問いを口にしていた。昨日から僕がやったことと言えば、土地を耕し、畝を作り、ダイコンの種植えの準備をしただけ。まだ野菜の種すら蒔いていないのだ。いったい、何がジャンペイくんの心を動かしたんだろう。
 ジャンペイくんは、今僕が耕したばかりの畝に目をやった。埃っぽいブータンの風に、印象的な黒い髪の毛がなびいた。
「ニッポンの農業のすごさはまだ分からない。でも、ケイジはブータンのことを一生懸命考えてる。ブータンの発展のために、わざわざニッポンから来てくれた。それだけで十分なんじゃないかって思ったんです。僕らのために頑張ってくれてるのに、ブータン人じゃないとかインド人じゃないとか、ただそれだけの理由で手伝わないのは、おかしいんじゃないかって」
 その瞬間、僕の心の中で何かが弾けた。ブータンに来てからずっと喉の辺りにつかえていた何かが、ジャンペイくんの言葉につつかれるようにして、あっけなく弾けた。
 人間なんだ。僕も里子もキンレーくんたち三人も、日本人やブータン人である前に、僕らはみんな人間だったのだ。今僕の前に壁があるなら、それは「日本人とブータン人」の壁じゃない。僕とキンレーくん、僕とドレイくん、僕とブータン人一人ひとりとの壁だ。それをこれから一つずつ乗り越えていかなければならない。二年をかけて。
「昨日と今日、ほんとにごめんなさい。でも僕、この国が大好きなんです。この国を発展させたい。そのために進んだ農業を学べるなら、どこの国の人からだっていい、学びたい」
 僕は笑顔を見せた。
「大歓迎だよ。僕のほうからお礼を言いたいよ。ありがとう、ジャンペイくん。一緒に全力を尽くそう」
「はい。頑張ります」
 僕らは固く手を握り合った。やっと始まった。そんな気がした。
 彼の手は温かかった。

 キュウリ。トマト。ナス。インゲンマメ。それからは、ジャンペイくんと二人で、思いつくかぎりの野菜の種を植える日々だった。ブータンの土壌や気候にどんな野菜が合うのかを調べるためだ。とりあえず、日本から持ってきた野菜の種はすべて植えた。やりたいこと、やらなければならないことは山ほどある。やり方を選んでいる暇はない。
 準備をしておいたダイコンも植えた。日本のダイコンだ。ブータンにもラフと呼ばれるダイコンがあるのだが、それはニンジンに近い見た目で、日本のダイコンほど太くはならない。
「ダイコンは二、三回に分けて間引きをするんだ」
「マビキ?」
「最初は一ヵ所に何粒か蒔く。そうしておいて、本葉が六、七枚になったら、一ヵ所一本にして、肥料を施す。収穫までは二ヵ月ちょっとだ」
 説明を交えながら、ジャンペイくんと協力して植えていく。彼が手伝ってくれるようになってから、夜に体にすり込む薬草の量が減った。
 ジャンペイくんは勉強熱心だった。野菜に応じた土の耕し方。効率の良い種の植え方。メモ帳と鉛筆を持参し、僕が説明したことを一言一句書きとめていく。その目には、ブータンの未来を担う若者の輝きがあった。

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