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青空、どこまでも(6)

「話すしかないと思うわ。その、キンレーくんって子と」
 里子の意見に腹を決めさせられて、キンレーくんと正対したのは次の日だった。朝一、キンレーくんがいつも座り込んで、田んぼを眺めている木の下に近づく。作業はジャンペイくんとドレイくんに任せてあった。
「ちょっといいかな」
 振り向いたキンレーくんの視線は、僕の体のあたりで止まった。そこからしばらく動かない。僕は、作戦成功、と心の中にやりと笑った。
「それ、どうしたんだよ。買ったのか?」
「貸してもらったんだ、いつも農場を見に来てくれてるオンディさんに。自分のものも買う予定だけどね。明日、奥さんと一緒に布地を選びに行くんだ」
 僕はその日、インドの民族衣装、ゴを着て農場にやって来ていた、オンディさんから借りた、木綿の紺色のゴだ。これを着てキンレーくんと話し合うというのは、里子のアイデアだ。僕が本当にブータンを愛しているということがキンレーくんに伝われば、心を許してくれるのではないか、と。
「今日は君にもプレゼントがあるんだ」
 日本の丹前とよく似たゴは、ケラという帯を巻き、余った着物をたくし上げるので、胸のあたりにだぶだぶとした懐ができる。僕はそこから折り畳んだ扇子を取り出すと、キンレーくんに差し出した。彼のウコン色のゴによく似合う、目の覚めるような朱色の扇子だ。
「それは扇子っていってね。暑いときにそれを自分に向けてあおぐと、風が起きて涼しくなるんだ」
 説明しながら、僕は自分の扇子で実際にやって見せた。僕の扇子は、数年前の誕生日に友人からもらった、お気に入りのものだ。
「物で釣ろうとしたって無駄だからな。俺は手伝わない」
 少し扇子を弄んでいたキンレーくんは、興味を示した自分を恥じるように、それを投げ返してきた。
「別に、これをあげるから手伝えって言ってるんじゃないよ。僕はただ、君と仲良くなりたいだけなんだ。君やジャンペイくん、ドレイくんと、大好きなブータンの役に立ちたい」
 そう言ってキンレーくんの目を見ると、彼もこちらを睨み返してきた。だがその目には、すでにさっきまでのような憎しみはない。そこにはただ、少しの警戒心と不安の色が残っているだけだ。
「お前、俺たちを馬鹿にしてるんだろ。ニッポンの農業が進んでるからって、ブータンを馬鹿にしてるんだろ」
 僕は首を振った。目の前のブータン人の少年が、愛しくてたまらなくなった。その言葉から、目から、体全体から、ブータンに対する溢れんばかりの想いが伝わってきた。
「僕は、ブータンが羨ましいんだ」
 僕はその場に腰を下ろして、静かに語り始めた。
「日本も昔は、ブータンのような美しい国だった。美しい自然。ゆったりとした生活。優しい人々。けれどそれらは、高度成長によってすっかり奪われてしまったんだ。田んぼや畑には次々と高層ビルが建設され、誰も彼もがあくせくと働きだした。自分や家族が豊かになるためなら、他人がどうなったって関係ないと思ってる人もいる。だから僕は、ブータンにいると幸せな気持ちになれるんだ」
 キンレーくんは目を伏せた。それから、一度は投げ返した扇子を、僕の手から奪った。おもむろに開き、あおぎ始める。その手つきがどこかぎこちなくて、僕は思わず吹き出した。
「畑の野菜だけどさ」
 目を伏せたまま、キンレーくんが言った。
「売れると思うよ。ティンプーの日曜市に持って行こうよ」
 気づけば、僕はキンレーくんを固く抱きしめていた。

「そのダイコン、えらく大きいね」
 青と赤の横縞のキラを着たおばさんが、農場で育ったダイコンを持ち上げた。
「ええ、ニッポンのダイコンです。ブータン産のラフよりも、長くて太いのが特徴です」
「まあ、ニッポンのダイコン。一本もらおうかしら」
 にこやかに応対しているのはキンレーくん。農場を手伝うことに決めた途端、まるで別人のように一生懸命働きだした。ティンプーの日曜市では、僕らの中では一番の商売上手だ。
「おお、ミスター・ニシオカ。久しぶりだな。農場、うまくいってるみたいじゃないか。君が初めて俺のところに来たときは、正直ここまでやるとは思わなかったよ」
 現れたのはローハン氏だった。僕がブータンに来てすぐ、「日本人にブータンの農業は変えられない」と断言した、パロ農業局の局長だ。
「ありがとうございます。この子たちの助けもあって、ティンプーで売れるまでにはなりました」
 僕はキンレーくんとジャンペイくん、そしてドレイくんの肩を抱いた。キンレーくんのケラには、僕がプレゼントした扇子が挟んである。
「おじさんも、ダイコン一本どうですか。ホジの具にぴったりですよ」
 ドレイくんが声を上げる。
「そうだね。ヤクの肉を我慢して、日本の野菜をたくさん食べれば、この出っ張った腹も引っこむかな」
「きっと痩せますよ。ケイジの作った野菜は、ヤクの肉よりもおいしいですから」
 ブータンの青空の下で、たくさんの笑顔が弾けた。


〈参考文献〉
・『ブータンの朝日に夢をのせて ヒマラヤの王国で真の国際協力をとげた西岡京治の物語』(小暮正夫著 くもん出版)
・『ブータン 神秘の王国』(西岡京治・里子著 NTT出版)

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