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青空、どこまでも(3)

 しかし翌朝、はちきれんばかりの僕の期待は、あっという間にしぼんだ。
「こんにちは。西岡京治です」
「……」
「ええと、君がキンレーくん?」
 目の前の兵隊刈りの少年は、警戒心むき出しの硬い表情で僕を見た。歯を食いしばり、両手は拳を握っている。喧嘩の強そうな子だな、と思った。
「君がジャンペイくんだよね?」
 その左隣の背の低い少年も、同じようなものだった。顔をうつむけて、靴の先で足元の土を弄ぶばかりだ。「話しかけるな」という見えないバリアが、彼の周囲には張り巡らされていた。
「そして君がドレイくんか」
 最後の少年は、やる気がないのがあからさまだった。欠伸を連発し、農業よりも時折空を横切る鳥に夢中のようだ。
 誰も返事をしてくれない。沈黙。どうしてだろう? 僕は何か気に障るようなことを言っただろうか? でも、ただ名前を確認しただけだ。僕はどうすればいいんだ?
「お前、ニッポンジンだろ?」
 口を開いたのはキンレーくんだった。
「ああ、そうだよ。日本から、ブータンの農業開発のためにやってきた」
「必要ないんだよ」
 うっすらと、僕に対する彼らの態度の理由が分かってきた。キンレーくんが続ける。
「ニッポンジンに教えてもらう必要なんてない! 農業なら、インド人が教えてくれる!」
 ああ、そうか。キンレーくんが吼えるのを、僕は穏やかな気持ちで聞いていた。ああ、そうか。この子たちは、「日本」を、「日本の農業」を知らないだけなんだ。最近まで鎖国政策をとっていた国だ。ブータン人にとって、外国というものはインドしかない。日本なんて、きっとインドの一地方くらいに思っているんだろう。
 キンレーくんの考えは、パロ農業局のローハン氏と同じだ。だが、彼に感じたような怒りを今は感じなかった。知らないことを怒っても仕方がない。キンレーくんたちと分かり合うためには、日本とは、日本の農業とはこういうものだと、僕が身をもって示していかなければならないのだ。
「じゃあ、君たちは、どうして実習生に志願したの?」
 開発庁の話によれば、この三人の少年たちは、自ら志願して実習生になったはずだった。
「勉強しなくていいから。実習生になったやつは、学校に行かなくていいんだ」
「まあ、言われたことはちゃんとやるけどさ。開発庁の人に怒られるからね」
「いいよ、やらなくて」
 ドレイくんの欠伸のついでのような言葉に、僕は言った。え、というように、三人の少年が僕を見た。初めて目が合ったな、と嬉しくなる。
「……怒ってる?」
 こちらの真意を窺うようなジャンペイくんに、僕は笑顔を向けた。
「怒ってないよ。開発庁に言いつけたりはしない。だから君たちは、僕のやることを見ていてくれ。それで、手伝おうかな、って思えたときに手伝ってほしい」
 少年たちは、交互に顔を見合わせた。戸惑いを隠しきれない様子だ。
「キンレーくん、ジャンペイくん、ドレイくん。これから二年間、どうぞよろしく。僕のことはケイジって呼んでね」

 たった二百平方メートルほどの面積とはいえ、そこに一人で畝を作るのは、なかなか大変な作業だった。キンレーくんたちは、ずっと僕の後ろについている。鍬などの道具を持ったり、水筒を渡したりといった補助はやってくれるものの、畝作り自体を手伝ってくれることはない。最初の二、三本目くらいで、「これはつらいかもしれない」と思い始めた。
 どんなにつらくても、「やっぱり手伝ってくれ」とは決して言わない。僕は心に決めていた。農作物の栽培を成功させるためには、農作物に対する作り手の愛情が不可欠だ。たとえ三人が作業を手伝っても、今のような気持ちでは、絶対にブータンの農業を好転させることはできない。
 結局、丸一日かけて、一人で畝作りを終えた。僕の白いTシャツは真っ黒に汚れているのに、キンレーくんたちが着ているゴは、鮮やかなままだった。

「これも試練だと思うんだ。彼らに『日本の農業を教わりたい』という心からの願望が生まれなければ、何をしたって成功にはおぼつかない」
 その日の夜、早くも筋肉痛に襲われ始めた体にブータンの薬草をすり込みながら、僕は里子に今日の出来事を話した。
「ブータンの農業を発展させる前に、ブータン人の日本人に対する心の壁を取り払わないといけないのね。二年で達成できるのかしら」
 そうだ、二年。僕に与えられた時間は二年なのだ。日本人とブータン人が理解し合うために、二年という時間は長いのだろうか、短いのだろうか。
 キンレーくんの眉間のしわ。ジャンペイくんの足元で抉られた土。ドレイくんの光のない目。考えれば考えるほど、「理解し合う」なんて途方もない夢に思えてくる。
「それでも、やるしかないんだよな……」
 思わず呟いた僕に、里子がスージャを手渡した。ブータンのお茶だ。ほんのりとバターの効いた熱いスージャは、疲れた体の骨の髄まで染み込むようだ。
「体にだけは気をつけてくださいね。ブータン中の人があなたを認めなくても、わたしはずっとあなたの味方ですから」
 里子の言葉は、スージャとともに僕を温めてくれた。

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