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本が読めなくなった

最近の私といえば、ピクミンブルームというアプリゲームや、オモコロチャンネルというYouTubeチャンネル、Duolingoという言語学習アプリで韓国語の勉強(をほそぼそと)やっています。

スマホを二年前まで使っていなかったのですが、(スマホは元夫が持っていたのでそんなに困らなかったし、ラインが嫌いだったから)今はスマホがないと何をしていていいかわからないような感じです。

去年本を少し買ったのですが全然読めなくなってしまいました。単純に読まなくなって読めなくなったというのもあるし、本を読んでいると「本が読めなくなったなぁ、前は貪るように読んでたのに。」と悲しい気持ちになるからかもしれません。

読まなくなって読めなくなったという理由の方は、お酒を飲まなくなって飲めなくなったみたいな感じで、もしかしたらまた読み始めたら読むのかもしれないけれどどうなのでしょう。今はYouTubeを観るほうがずっと楽なことに気づいてしまったので、もう戻れないのかもしれません。友だちに借りた漫画すらもよむのが嫌で、(というか読めないのが嫌で、)投げ出してしまいます。

読めない自分がいや、悲しいというのはなんだか可笑しいのです。だってそう思うなら読めばいいのですから。卵が先が鶏が先かというような感じ。
読めばいいのですよね。でも読めない。読めないから嫌になってもっと読めない。読んでも意味がわからないところがあると自分のことが嫌になりますし。
もともと本を読むのは習慣だったので、読めなくなるなんて思っていませんでした。読まないと困ることといえば、良かれと思って本を貸してくれる友人に申し訳ないこと、読みたい本が積読になり、内容が知りたいのに知れないことなど、まあさほど問題ではないのだなと今気付かされました。

また、元夫が本を全く読まない人で、私はずっとそれをちょっとバカにしていましたので、そんな過去の自分から見たら今の自分は実に情けなく映るだろうという気持ちもあります。だからつらいし悔しいし情けないし悲しいし嫌なのでしょう。

本が読めなくてつらい、という悩みに対して、解決の手段は2つ考えられます。
一つはむりやりにでも読むこと。漫画から始めて少しずつ、少しずつ読めるようになること。そのためにスマホから離れる時間を作ってみる。YouTube断ちしてみる。本を読める自分が好きになるから、ますます本を読むの好循環。

もうひとつはスパンと諦める。もう本は読まない。悩んでる時間がもったいないから。本は娯楽の一つであり人生の必須項目ではないと割り切る。今日職場のお姉さんに「本が読めなくて、買ったのに積読になってます。」と相談したらみんなそうじゃないですか?と言われたのでまぁ、そんなものなのだと考えましょう。今までにあまり取らなかった手段「諦める」。これもありかもしれません。

というわけで今後の自分の読書との付き合い方について考えてみた回でした。
ちなみに私の読んだ本のベストは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』と、東野圭吾の『悪意』です。どちらも人間の一筋縄ではいかないところを描いた作品です。
ベストなのにふたつなのはキニシナイデクダサイ。



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