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【人物伝】グスタフ・マーラーの素顔[3]〜リヒャルト・シュトラウスとの不思議な人間関係〜

マーラー(1860-1911)の人間性に関する記述を過去に2回書いてきたが、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)との関係を示すおもしろい記録が残っている。

同世代のこの二人の作曲家の歳の差は4歳。

お互いに尊重し合い、かつ対立心もあったという表面上は良きライバルであったようだ。

ただお互いを「尊重」という一言で片付けられるかというとそうでもない特殊な関係を築いていたようである。

石倉小三郎著『音楽文庫 グスターフ・マーラー』(音楽之友社 昭和27年出版 絶版)を参照すると、次のような記述がある。

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シュトラウスとの関係、即ちこの時代の代表的音楽家たる二人の間は、まさに特別なものであった。

驚異しながらの対立、嫌悪のまじった好意、尊敬の念にみちた背反であった。

二人はお互いに尊重し合った。

しかしそれはお互の生涯に於てのある僅かな時に於いてであった。

それにも拘わらず、シュトラウスは、非常なエネルギーを以て彼と彼の作のために挺身援助したところの一人であった。

マーラーはまたヴィーンに於いて「火のない苦しみ」と「家庭交響曲」を壮麗に演奏して、その地に於てのこの音楽家に対する完全な理解とあつき愛の基礎を作った。

「サロメ」に対してはある陰鬱な感動を以てこれを見、無気味な天才的な、そして全く新しい領域をあばいて見せた作品だと云っている。

いずれにせよ、この二人の関係は独特なものであった。

シュトラウスは、マーラーの交響曲を指揮してそれについて再創作の経験をもたなかった間は、マーラーのものは文学であると云っていた。

マーラーもまたシュトラウス物の中に文学の要素を見て、それが邪魔になると語っていた。

それは純装飾的でないものに於てはいつも認められるものであるが、彼はシュトラウスをいつも標題楽作家として見ていた。

シュトラウスは詩的作品から刺激を得て、それから後は全く音楽家として創作する人ではあるが、それ故彼は劇詩家としてのシュトラウスを、即ちことにサロメを尊重したのであった。

自分とシュトラウスとは正反対の極から来て音楽の中心に於て合一した者であると云つた彼の言葉もその意味に於て理解さるべきである。

(〜中略〜)

しかしこの二人が相手をそれぞれ文学的とみて、自分を純音楽的と見ていることは、とも角不思議なことである。

この点、二人は双方共に正しくもあり、またまちがってもいる。

(〜中略〜)

シュトラウスは云う。

「自分はビールコップを暗示的に音で現わす(表す)ことが出来る」と。

そしてマーラーは云う。

「自分は自分の世界観を、言葉の助けを借らずに完全に表現することが出来る」と。

この両者の言葉はとりも直さず二人の差違を示しているものである。

それは一方が他方を理解し得ないこと、即ちそれぞれ相手を文学的なりと見ているということの理由を示している。

(〜中略〜)

シュトラウスはより多く現実の人であり、マーラーはより多く夢の人である。

シュトラウスに於ては、マクベスやツァラトゥストラの気分世界が彼を構成にまで呼びさますとき、それが音楽になり始める。

世から離れ、神を求め、人生の方向を悩みつつ求めているところのマーラーに於ては、自分の探究しそして発見したところのものが、彼には新しい心の世界へ彼を導き入れたとき、云わば彼の内心の世界がそれに刺激されて繁り栄えたとき、初めて一つの構想が心の中に用意される。

そして彼が彼の音楽に於て象徴と表現を与えるとき、初めて音となって響き始めるのである。

二人の間にはいま一つちがっていることがある。

シュトラウスは疾風的な発展をやるに拘わらず、いつも固執的に落ち着いている。

マーラーは始終永久に求めている人である。

シュトラウスは固く自分に定着している。

マーラーはこの様な落ち着きを最終作「大地の歌」と第九とに於て得たのであるが、そこでさえそれはむしろ、一つの休みであり息つぎであり、新しい戦きに一時心がなだめられているという形である。

それ故彼のなげる問題はわれ等に痙攣を起させる程にも大きい。

雄渾(ゆうこん)につみ上げられた偉大な建築の、人をひきさらい行く様な想像力がそこにある。

夢の国の猛鳥のように彼自身を遠い天塞へと投げやるかと思われるような猛々しい力がそこに見られる。

しかも、そこに作られるべき世界像がすぐに消え失せ、または人生の妄誕不合理に捉えられて終には、その高い世界を失いはすまいかとの心配感がそこに見られる。

それ故、この最高の瞬間をしっかりとくいとめておこうとの焦りが見られる。

シュトラウスに於ては集中のうちに魅力がある。

一拍の多きをも許すまいとする繊細な均齊の中に、そしてまた、危険を意とせず突進する勇気のうちに何か人を魅するものがある。

それ故ヴァーグナー以後に於て音楽の新領域を拓いたところのこの二人の間に理解を欠いていた事は敢て驚くに足りない。

双方の各が、自分が音の世界に住んでいる者で、相手は別の世界から来た人だと思っている。

(〜中略〜)

そして勿論二人共互にその凡てを尊敬を以て、しかも感情の中ではなく意志の中に隠れ存したところの尊敬を以て見ている。

相手の大胆さを驚きながら見守りつつ、それが自分に拍車をかけてくれるが、目標を明らかに示した刺激を与えてはくれないと見ている。

しかし、この二人ほどお互いからよく学び合い、よく分ち合い、またお互いに有益な影響を受けとり合った例は、音楽史上に於てたぐい稀に見るところのものであると云い得るであろう。


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いかがだろうか。

二人の励まし合い、学び合い、そしていたわり合うという表面上の尊敬心の裏には、対立心も自然のうちに湧き起こるのが、人間としての自己顕示の本質に当たるところである。

マーラーの二重人格的な性格からも、尊敬と対立の入り混じる複雑な感情が生じやすいことはうなずけそうである。

各々の生涯を通じて作品の表現手法に、お互いの一段とした飛躍が見られるところは、一要素としてこれらの影響がまったくないとも言いきれないのである。



(文献資料において、送り仮名や旧字などの今の時代からみて適切でない表記がありましたが、そのまま記述しています。)

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