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分かることと分からないこと

2010/12/10


「今日は楽しかった」って、別れ際に母が言う。

お天気が良いから、車椅子で少しだけ外を散歩しようと連れ出してみたけれど、出かける前から母の表情は固まったままで、行きたいんだか行きたくないんだか分からない様子だった。

それでも「行こう…!」と小さく呟くので、スタッフ2名に介助してもらって車椅子に移動させた。カーディガンを着せ、さらにふわふわモヘアのカーディガンで上半身を覆った。それから膝かけを2枚かけて、薄いパジャマだけの下半身を防寒した。

病院の敷地内を、ただゆっくりと一回りした。途中私は何度も母に話しかけたけれど、母は一言も言葉を発することがなかった。

以前母と散歩に出た時は、母の声が小さすぎて聞きとれず、幾度となく車椅子の横から顔を近づけてなんとか母の言葉を拾い、会話を繋げようとしたものだった。

私の言葉に何も反応しない今の母が、心の中で何を想っているのかいないのか、私には何も汲み取ることができない。

一回りしてもう一度、陽の当たる病院の入り口付近に戻って、車椅子を止めた。傾きかけた陽がまともに母の顔を照らすので、「眩しい?」と訊いても、母は表情を変えない。ただ、目からひとすじ、泪がこぼれているのに気づく。おそらくそれは感情的なものではなく、生理的な反射によるものだろうと、私は考えた。病室を出る少し前にも、看護師に目薬をさしてもらったばかりだった。

「入ろう」と、母が小さな声で呟くので、「中に入る?」と確認して、病院の中に入った。
病室に戻った母の顔は強張っていて、意識を失う寸前だったようだ。

ベッドに横たわる母は、口を半開きにしてうつろな目で宙を見つめている。私の言葉は聞こえているけれど、顔筋は固まったままだ。こういう状態を、意識レベルが下がったと呼ぶのかどうか、私には分からない。

こうして顔の筋肉も手足の筋肉も、すべてがフリーズした状態で過ごす時間が、少しずつ、でも確実に長くなっていることだけは分かる。

少しも楽しそうじゃなかったけれど、それでも「今日は楽しかった」って、母は言う。それが本心なのか、母の中に未だにしっかりと残る得意のコントロールなのか、私には分からない。


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