見出し画像

背負う覚悟

2010/8/27


どうしてそんなに、生きることを強いなければいけないのか、やっぱり私にはわからない。

「この頃、痙攣をよく起こすのよ」と、母が隣のベッドの女性について語ったばかりだった。お隣の女性が入浴から戻ってこられて、胃ろうから液体の栄養剤を入れていた時だと思う。私がまさに、母の元を去ろうとした時、隣の女性が痙攣を起こしながら、激しい嘔吐を始めた。

右を向かせられたら向かせられたまま、いつも苦しそうな表情で、ただ横たわっているだけの方だ。栄養剤が、胃から食道へと逆流したのだろうか。私は急いで母のところのナースコールをしたが、女性の嘔吐は止まらない。

介護スタッフの話し声が廊下からしたので、飛び出して行って声をかけた。「あらあら、ごめんなさい、辛かったわね」と女性に声をかけながら、介護スタッフは急いで看護師を二人呼んだ。

看護師達はものすごく落ち着いた様子で、部屋に入ってきた。おそらく珍しいことではないのだろう。私は帰宅後に用事があったので、少し不安げに眉間を曇らせる母を宥めて、悪いけれどその場を去った。

隣の女性はいつも身体を母の側に向かせられていて、そしていつも、哀しそうな苦しそうな顔をしている。時々は目を開けているので、私は母におやつを食べさせるとき、なんだかとても後ろめたい気持ちになって、仕切りのカーテンを少しだけ、女性の顔が隠れるくらいに引いてみたりする。

家族が見ればおそらくは、意識も少しはあるのだろう。快不快も当然あるに違いない。生きられる方法があるならば、死なせるという選択をするのは
家族にとって本当に難しいことだ。

横たわり、苦痛の表情を浮かべながら、栄養を与えられて生かされている女性であっても、そこが自分の安らげる場所であるならば、そこに愛する人達の息遣いを感じることができるならば、きっと、生きる意味はあるのだと思う。

女性がこの病院に転院して、母の隣にやってきた日、私よりも少し年上の姉妹が、感じ良く私に挨拶をした。「この病院は、最期までいられるんですものね」と嬉しそうに大きな声で話しかけられた時、間違いなく母の耳に届いたと、私は心の中で舌打ちをした。

私はそれ以来、姉妹のどちらをも、病院で見かけたことはない。もちろん、だからまったく見舞いにも来ていないと、私が思い込んでいるわけでは決してない。

何のために生かし続けるのか。生き続ける時間のほとんどが、苦しむためにあるのだとしたら…。
自力では生きられない命を引き延ばすのであれば、引き延ばしただけの価値を本人が見い出すか、それが無理ならば、引き延ばしただけの意味を、誰かが与えなくてはいけないと思う。

本人にそうすることができずに、家族や周りもそうすることができないならば、逝かせてあげる選択を早く決断してほしいと、私は思う。

「衰弱死させる」という罪悪感を、背負うことから逃げたくはない。延命する意味を与えることから逃げるのであれば、背負う覚悟を引き受けることも必要だと、私は今、改めて思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?