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レビー小体型認知症の母の最期の記録④【2011/12/29・30】

2012/2/13

◆2011年12月29日(木)


通夜は29日。
葬儀社の計らいで、どうにか斎場と火葬場を押さえることができた。

通夜の日、早目に姉の家に行く。
冬の陽射しが降り注ぐ明るい和室で、母は人形が横たわるように眠っている。

納棺の際、母のお気に入りだったミンクの毛皮のコートを上にかけてあげる。リバーシブルのコートで、母は毛皮の面をいつも下にして着ていた。少し古いものなので肩が大きく丈も長く、13号サイズのコートは私達姉妹にも叔母にも、大きすぎてまったく着られない。

もったいない気持ちもあったけれど、誰も着られないものをただ同然で売ったり、無理にサイズ直ししたりするよりは、母に着てほしいと、私達は思った。母が寒くないように、温かなコートで包んで旅立たせてあげようと思った。

娘はお祖母ちゃんに宛てた手紙を柩に入れる。
「お母さんは、これがすごく気に入っていたから」と下の姉は、自分が母のために買ったベストを入れる。青梅の病院の看護師がつくってくれた、キムタク団扇も入れる。


母の柩を乗せた車を皆で見送り、私達三姉妹とその家族全員で、近くのデニーズに行って昼食をとり、それからタクシーで斎場に向かった。

祭壇は派手すぎず、でも華やかで、きっと母は喜んでいただろう。母が倒れる少し前に、私は母から多くのことを聴き取っていた。だから母が希望する祭壇の花の色味までしっかりと、葬儀社の人に伝えることができた。

父の死後、母は役員として会社に迎え入れられ、多くの人の間で二十年間を働いて過ごしてきたけれど、現役でもない今、はたしてどれくらいの人が参列してくれるものか、それもこんな暮れの押し迫った時に…

寒空の下、想像をはるかに超える多くの人が、母のために参列してくれた。お焼香の列に並びながら、ハンカチで目を押さえる人もいた。母は多くの人に愛されてきたのだと、確かに昔の母は明るく、優しく、お茶目な人であったと、私は明るい笑顔の母の遺影を見つめた。




◆12月30日(金)


告別式。

柩の中の母の全身は、次々と美しい花に包みこまれていく。母の顔の周りに、どんな色のどの花を置けば映えるのか、私はレイアウトを考え、花の位置を微妙に動かす。そんなことをしながらも、泪は止めどなく頬を伝う。流れ続ける泪を拭うこともなく、ただひたすらに、花を手向ける。

私は母の遺影を胸に抱えて、ハイヤーに乗り込む。
到着した火葬場は、斎場も兼ねた新しく美しい、ホテルのような建物。遺影を抱いた遺族を先頭に、ゾロゾロと喪服軍団が館内を歩いている。何かの団体見学ツアーのようだと思う。


母に最後の、最後の別れをする。
母の冷たい額に触れ、母の冷たい頬を撫でる。
母の柩は躊躇うこともなく、炉の中に滑り込んでいく。


母は呆気なく、白骨となって戻ってくる。
母の骨は、骨壷いっぱい、溢れそうなほどにある。
「このお歳でしたら普通は、骨壷の七分目程の方がほとんどですね」と言われる。やはり母は、大きな人だったのだと想う。


通夜と告別式を行った斎場に戻り、親族だけで精進落としを行う。
私の従兄弟の生後半年の赤ちゃんが、皆を和ます。私も赤ちゃんを抱っこして、可愛さのあまり何度も頬ずりをする。
消えていく命と、育ちゆく命。

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