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レビー小体型認知症の母の最期の記録③【2011/12/28】

2012/2/4

◆2011年12月28日(水)


27日の晩、病院から帰宅した私はいつもより少し早目に入浴し、0時をまわってベッドに入った。

電気を消して間もなくだったと思う。普段、そんな時間に鳴るはずのない家の電話が鳴り、私は跳ね上がるようにベッドから降り、受話器を取った。上の姉からだった。

母の呼吸が止まりそうだと、病院から連絡があったとのことだった。姉夫婦と下の姉は、一緒にタクシーで病院に向かうという。私は息子に伝え、入浴中の娘に伝え、パジャマを着替えた。子供達も行くというので、連れていくことにした。

乾ききらない髪に帽子を被った娘と、呆然としている息子と一緒に、タクシーの止まっている田無駅前のロータリーまで歩いた。年末のせいか、タクシー乗り場には何人かの客が並んでいた。待っている間に、私の携帯に電話が入った。0時42分。宿直の当番医からだった。

0時過ぎに看護師が見回りした時には、母はすでに呼吸がほぼ止まっている状態だったこと、心電図で確認したところ、今はまだ僅かに心臓が動いていること、しかしそれも時間の問題で、おそらくはあと数分で心臓も完全に止まるだろうことを、医師は告げた。

これから病院に子供達を連れて行っても、母の最期に立ち会えることはない。私は子供達に家に戻るよう指示をし、一人でタクシーに乗った。

しばらく走ると、もう一度病院の宿直医から電話が入った。0時53分。母の心臓が今、完全に止まったとの知らせだった。

それから電話は看護師に替わり、家族が到着する前に母の支度を整えても構わないかと確認された。私は動揺することもなく、淡々とただ、現実を受け止めていた。それよりも、深夜に一人でタクシーに乗り、青梅のほうまで向かうという非日常の方に、いくらか興奮していたかもしれない。


暗い病棟を歩き、ほんの何時間か前に乗ったエレベーターに乗って5階へ行き、母の病室の引き戸を開ける。二人の姉と義兄は、だいぶ前に到着していた様子だった。

ベッドの上の母は薄目を開けていて、小さく開かれた口からは歯が覗いていた。母の頬と額に触れると、まだ充分に温かかった。私が来るまで、目を閉じないままにしておいてもらったのだと、上の姉が言った。

うっすらと開いた瞼の隙間からは黒目が覗いている。母はまだ生きていて、次の瞬間にはすぐにまたパッチリと両眼を開いて、いつものように私の顔を、穴の開くほど見つめ返してくるような気がした。すでに白装束に着替えた母の両手は、胸の上で窮屈そうに組まれていた。母は、信じられないほど薄い身体をして眠っていた。

その後看護師がいくら工夫を重ねても、どうしても母の瞼と唇を閉じることはできなかった。痩せすぎていることが原因かもしれなかった。

母の顔には、すでにきれいに白粉が塗られていた。母が死んだ時には、私が化粧をしてあげようとずっと前から決めていたので、持参したアイブローペンシルで母の眉尻を描き足し、ほんのりとチークを入れ、リップブラシで丁寧に、口紅を塗った。母は今にも瞼を開きそうだった。

夜勤のスタッフが部屋にやってきては、お茶のセットを運んできてくれたり、夕食時に母がカレーを一口食べたことを話してくれたりした。「まあ、お綺麗ですね」と、紅をさした母の顔を見て言った。

病室の私達は時々言葉を交わし、時々母の顔を見つめ、泪ぐみ、時々想い出話に小さく笑った。疲れて欠伸をし、お茶を飲み、7時になったら葬儀社に電話を入れようと話した。

朝が来て、当番の看護師が出勤してくると、母に関わってくれた何人かが
次々に挨拶にやってきた。「何のお力にもなれず、申し訳ございませんでした」と、それがこの病院の、最後の言葉と定められているようだった。

12月の初旬に、姉の知り合いの葬儀社とは既に打ち合わせが済んでいたので
(この打ち合わせの場にも、私は発熱で出席できなかった)、事はスムーズに運んだ。葬儀社が手配したお迎えの車がやってくる前に、母はストレッチャーに乗せられて、病院1階の霊安室に移動した。

広々としたリビングのような部屋で、ベージュの皮張りのソファに、花柄のクッションが置かれ、木製の机と椅子、ペンと便箋、小さなチェスト、お茶のセットも用意されていた。

コンビニでおにぎりでも買ってこようと、空腹の私は霊安室から外に出た。

2011年12月28日、午前7時53分に見上げた空は、くっきりと青かった。


終わったのだと、思った。まだ2~3日はいろいろあるけれど、それでもひとつ、とても大きな事が、終わったと思った。

お迎えの車がやってきて、白布に包まれた母は、用意されたストレッチャーに荷物か何かのようにバンドで固定される。母が可哀想ではないかと感じる。

霊安室のドアを開けて外へ出ると、病院の中庭にズラリと、白衣を着た医師、看護師、スタッフ達が一斉に頭を下げて並んでいる。映画のワンシーンのような光景に、一瞬ギョッとする。まるで何十人ものエキストラのようだ。

突然マイクを渡された姉が、皆の前で簡単なお礼の言葉を述べる。最後にこんなパフォーマンスが待ち構えているとは知らなかった。大勢のスタッフ一同が、揃って深々と敬礼を続けている中を、母と私達を乗せた車は発進した。

自分の親が、何かとても偉大で、多くの人から敬われ、大事にされてきた特別な存在だったのだと、小さな勘違いをさせてくれるような、そんな素晴らしい演出だった。これがこの病院の最後の、そして最高のパフォーマンスなのだと、冷めた頭で考えながらも、しばらくは泪が止まらなかった。

練馬の姉の家に、母をいったん戻すことにした。姉の家の明るい和室に布団を敷いて、薄目を開けたままの母は眠った。

姉と一緒に、葬儀社の人と打ち合わせ。祭壇の確認、花の確認、料理の確認、遺影の確認、人数確認…等々等々。

平成19年の日付の、「娘達へ」という母の一筆が添えられた、袋に入った母のスナップ写真が見つかった。自分の葬儀の際には、必ずこの写真を使うようにと書かれてあった。何かのパーティに出席した時のものらしい、60代の母の明るい笑顔。そうだ、これが私達の中にずっとあったはずの、本来の母のイメージ、同時に母自身が抱き続けてきた自己イメージそのものなのだと、そう思った。


昼過ぎに、娘と息子が到着。母と対面した。母の顔に被せた布を捲る前から、息子は泣いていた。母の閉じない瞼と唇に対処するため、葬儀社が納棺師の女性を手配してくれた。

女性は黒のパンツスーツ、完璧なメイクとヘアスタイルでやってきた。落ち窪み過ぎた眼窩と、突出した頬骨、抉れるように削げ落ちた頬を、いくらかでもふっくらとさせるために、ヒアルロン酸の注射をすることを提案され、私はすぐに同意した。

人の眼に触れられる時には常に綺麗でいたいと、多少お金をかけてでも母ならそう願うだろうという確信があったからだ。納棺師の女性に言われるままにお湯を用意し、後はお任せすることにした。「ご家族の方がご覧になるのは、お辛いと思います」ということだった。

しばらくして女性に声をかけられ、和室の引き戸を開けると、両眼と唇をしっかりと閉じた母がそこに居た。両瞼の周りも、頬骨の下の凹みも、いくらかは目立たなくなり、おそらくかなりの細工を施しただろう母の顔はまるで別人のようだったけれど、それでも残酷さは少しだけ和らいだ。

女性が母に改めて化粧を施す様子を、脇で見ていた。クリームファンデーションの色が明らかに濃すぎるので、色を替えてもらう。母はもっと色白だったから。口紅の色も何度か重ね塗りしてもらう。なかなか母のイメージには近づかない。

私に確認して、女性は薄紫色の綿の塊を取り出し、細長く折りたたんで、母の白装束の襟の上に幾重にも重ねていく。味気なかった衣装が、ほんの少しだけ華やいで見える。前髪を少し、ふんわりとしてもらう。面変わりしたけれど、やっと目を閉じ美しくなった母に皆が安堵し、喜び、納棺師の女性にお礼を言った。

練馬から子供達と三人で、タクシーで帰宅する。一睡もしていない身体はひどく重いけれど、頭の中のどこかが妙に冴え渡っているような気がする。

長い、長い一日だった。


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