烏森神社と播州赤穂の不思議な関係。

わたしには、不思議な友人がいる。

この友人との付き合いは地球時間では、そろそろ4年くらい。
今日は、その友人とのやりとりでわかったことをまとめて残しておく。

友人は東京に住んでいる。
私は兵庫。
やり取りはメッセンジャーかzoom会議。
2024年3月に初めて東京で会う。

最近はちょこちょこ東京に遊びにいくので、宿泊先の相談もこの友人にしている。

その日もこんなメッセージからはじまった。
「目黒の五百羅漢ってどう?」

唐突にこんな質問からはじまる。

友:「あー、詳しくないわ。ごめん。」
私:「いいよー、なんかちょっと『喚きたてる女、正気を失った女」が歴史的にからんでるのかなー。火事があったみたいだけれど、誰か放火でもしたのかなー。と、思ったのよ。」

現在、北斗七星の【アリオト】がクローズアップされており、このアリオトがデュオニソスの周囲にいるマイナス教団のようだ。とのM氏の発言。そこから目黒の五百羅漢が気になったのだ。
マイナスは「わめきたてる者」を語源とし、狂暴で理性を失った女性として知られる。

友:「てことは、お七もそうなのか。」

八百屋お七
江戸時代前期の日本人女性。
恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女。
井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられ、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
(※【芸能】注目ポイント)

この【お七】が絡む「お七の井戸」というのが目黒区下目黒にある。
お七本人が使ったわけではないが、恋人の吉三郎が出家し、お七を供養の行を行う際にこの井戸の水で身を清めたとされる。
(※【行】がポイント。行は修行のこと。)

お七の井戸

そんなやり取りをしながら、私はネットで五百羅漢近辺を捜索。
すると、近くの【滝泉寺(目黒不動)】にある【女坂】の途中には役行者(えんのぎょうじゃ)の像があるとのこと。

役行者

(説明板)「銅造役の行者倚像   区指定文化財(昭和59年3月31日指定)   下目黒3ー20ー26 役の行者(役小角ともいう)は奈良時代の山岳修行者で、修験道の祖として崇拝されている人物です。この像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどもとても巧みで江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品の一つです。 表面は黒光りしており、これは鋳工の間でカラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には巻子を持っています。 また、像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります。  平成21年3月 目黒区教育委員会」

私:「女坂ってところに役行者の像があるみたい。役行者って言えば、北斗七星だから、おっけー。つながった。」

富士講の開祖、角行(かくぎょう)は、父母が北斗星(北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子とされる。7歳で北斗星のお告げをうけて、修行をはじめた。
修行中に役行者よりお告げをうけて、富士山麓の人穴にこもり、この穴で4寸5分角の角材の上に爪先で立ち、一千日間の苦行を実践し「角行」という行名を与えられる。

北斗星のお告げ、役行者のお告げがリンクするので、役行者も北斗七星とする。
M氏は、役行者が夢をつかって角行へあれこれ指示していたという。

五百羅漢像は、江戸の大火のひとつである行人坂の大火で亡くなった方々の鎮魂のために作られた。
行人坂という名称は、湯殿山の行者(法印大海)が大日如来堂(現在の大円寺)を建て修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったので付けられた。

ただ、行人坂の大火は「お七」が放火したわけではない。というのが史実。
とはいえ、エーテルレベルでは因縁のつながりがあるだろう。

【北斗七星と妙見信仰】
インドで発祥した菩薩信仰が中国で北極星(北辰)、北斗七星信仰とあわさり、日本に伝来したもの。
インド由来というよりは、中国の道教に由来する思想が強い。
「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということ。
妙見信仰が日本へ伝わったのは7世紀(飛鳥時代)のこと。
信濃から関東・東北にかけての牧場地帯に多く見られる信仰で、「七」を聖教とする。
※北斗七星が七つ星であるから「七」を重んじるわけだが、話題にでていた【アリオト】らしき女性の名前が「お七」であることも面白い。

※また、北斗七星の中の一つ【アルカイド】はこの星を背にすると必ず戦いに勝つと信じられる信仰の影響で、軍神として崇敬されるようにもなった。
この信仰者の中には平将門もあり、戦いのさなか妙見菩薩を見たとの伝説がある。

と、ここで友人が急に話をきりかえる。

稲荷町駅の葛飾北斎の墓について。

葛飾北斎の名前も北斗七星からとられている。
6歳から絵をかきはじめ、生涯絵を描き続けたあたりは修行のようにも思われる。
また、代表作の『富獄三十六景』が富士を描いた大作であることを考えると、富士講の開祖、角行を思いうかべる。

これまでの北斗七星の話題が、友人の記憶を刺激し、次の話題へとうつる。
本題は葛飾北斎ではなく、べつのところ。


友:「お墓にさ、〇〇川の奈良村とほってあったけど、それは奈良よね。」

奈良のある村の名前が出てきた。私はヤタガラス関連の村と考えている。

そのお墓の家系は、烏森神社との縁が深いとのこと。

私:「そんなん、絶対ヤタガラスやん。」

ヤタガラス・八咫烏とは、日本神話に登場するカラス。
神の使いとして、神武天皇を奈良の橿原まで導き、導きの神として信仰されている。
また、その子孫は現在に至っても、天皇家を守るために陰で働いているといわれている。
(※本人たちは、ヤタガラスであることを忘れているともいわれる。)

私:「あ、思い出した。前回の東京行きで烏森神社行きそびれた。あれ?なんで行こうとしてたんだっけー。ド忘れ。」

理由を思い出そうとしたとき、烏森神社の社紋を見て、姫路城城主だった池田輝政の家紋を思い出す。(後で見比べたら、違うものだった。)

で、ちらと姫路城のことが頭をよぎる。

友:「烏森神社の神輿の上には烏が4つ飾ってあって、神輿とか秦氏とか。
そのお墓の家系は昔米屋で、〇〇は8月8日生まれで八八、蜂がうるさいし、8歳のときに伸縮自在の烏存在みてる。」

なかなかにヤタガラスくさい。

友:「烏森神社に行ったとき、切腹最中(せっぷくもなか)なんてのを買いに走ったよね。」

私:「井戸で思い出したけど、姫路城に【お菊井戸】ってあるんよ。播州皿屋敷でお皿を割ったお菊が折檻されたすえ、身を投げた井戸。
井戸は秘密の通路じゃないかってことで、調査が入ったらしいけれど不振な出来事があって調査打ち切り、今もどこにつながってるかわからないらしい。」

ここのやり取りは、ほぼ同時にしているのだが、全く別の話をしているようでつながるのが面白い。

友:「赤穂播州なんか近いのかな。」

私:「赤穂や姫路はひっくるめて播州だよ。」

ここでは、私はまだ気が付いてないが、切腹最中とは、赤穂の浅野内匠頭にちなんでいるのだ。

私:「赤穂って面白い場所なんだよね。まずは、忠臣蔵が有名でしょ?浅野内匠頭の赤穂藩。でね、安倍晴明も一時期赤穂にいたみたいなんだよね。そのライバルと言われる芦屋道満も赤穂に流されたらしく、その子孫が赤穂に残ってるみたい。
そして、最近知ったのだけれど、「風土記」って日本中にいっぱいあるはずなんだけれど、完全に残ってるのは出雲国風土記、そして、ほぼ完全に残ってるのが播磨国風土記なんだけれど、播磨国風土記は赤穂のところだけがないんだって。なんでだろー!ふしぎだ。」

友:「新橋の蟄居先、浅野内匠頭の話と、47の赤穂浪士のもなか」

なんと、赤穂の藩主、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に切りかかったあと、切腹までの間に一時あずかられていたのが、烏森神社のすぐ近くの屋敷だったとのこと。

私:「そして赤穂には、秦河勝がうつぼ船で流れ着いたという伝説があって、秦河勝が北斗七星のかたちに千種川を治水したとかしないとか。秦氏だね。あ、お稲荷信仰も秦氏だね。つながった、つながった。それもあって、烏森神社に行こうとしてたんだっけ、わたし。よくわかんなくなってきた。
そして、その秦河勝が葬られているという生島のまえに神社があって、大避神社というのだけれど、そこにはM氏も実際来たことあるらしく、その雰囲気がとても気に入っているようだよ。」

友:「そんな史跡があるの?それは。。。行くことになりそう。」

と、そのお墓の家系の方の奈良の里についての情報がはいる。
修験道との関りが深い〇〇村は役小角が、勅命により国家安泰の根本道場を開山したことから歴史に刻まれ始めます。
(※役小角=役行者)

大避神社のある山の中腹には「妙見寺」がある。これはもちろん妙見信仰の寺であり、北斗七星関連。

妙見寺から見る生島

ここらあたりでやっと話がかみあってくる。

私:「赤穂浪士と陰陽師って調べたら、安倍晴明は一時期、播磨守(はりまのかみ)として播磨陰陽師をまとめていた時代があるみたい。赤穂浪士の中には陰陽師の子孫が多かったみたいよー。」

陰陽師には京都系統の「都陰陽師」と
播磨の国の「播磨陰陽師」の二種類の系統がある。
安倍晴明は都陰陽師。
その清明が一時期、播磨守として播磨陰陽師をまとめていた時代がある。
播磨の国はもともとの陰陽師のふるさとといわれている。
都で活躍していた陰陽師は応仁の乱が起ると京から播磨へ戻った。
陰陽師たちの子孫に多くの赤穂浪士がいたと言われる。
わずか47人で討ち入り成功したのは、陰陽師の知恵があったのか。

播磨陰陽師の代表格が芦屋道満
安倍晴明のライバルとされている。
清明が五芒星、道満六芒星。
兵庫県作用町大木谷(おおきだに)というところに、道満と清明の塚がある。
2019年11月にわたしはなぜか訪れている。
ものすごく田舎で何もないところなのだけれど、塚は地元の人たちが手を入れていて心地よい場所だった。
芦屋道満は悪役として描かれ、藤原の道長の呪詛を請け負うが、清明に見破られて播磨へ追放されたという。
しかし、もとが播磨の出なのであれば、追放というのもおかしなはなし。

道満塚

赤穂浪士が陰陽師の子孫でつくられた組織であれば、これは広範囲で捉えるとヤタガラス。
安倍晴明も絡んでいるのだろうが、播磨の国がもともと陰陽師のふるさとなのであれば、陰陽師は天皇を守るための組織。
なぜ、播磨の国がもともと陰陽師のふるさとと言われるのか。
陰陽師の起源をたどると、聖徳太子にいきつく。
陰陽師の前提となる陰陽五行思想は飛鳥時代に伝来。
聖徳太子をはじめとする選ばれた34名の官僚が学び、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになる。
政治に関わる陰陽師が所属する「陰陽寮」ができるのだが、これは明治政府に廃止されるまで続いていた。
(※今も秘密裏に働いているという話もある。)

安倍晴明の神社が京都にあるのだが、そこにはこんな井戸が。

北斗七星と五芒星の井戸・ここにも井戸

秦河勝は聖徳太子の腹心といわれ、当時の秦氏の族長的人物とされる。
丁未の乱(ていびのらん・これを機に物部氏が衰退)のときには、軍政となり聖徳太子を守りながら、仏像に使う木を調達した。物部守屋の首を斬ったのも秦河勝とする説がある。
(※このあたりの話は、興味がありすぎて磐座ハンター平津豊さんの講演会を聞きに行った時に、その話をされていたことを思い出した。ここでは書けないが、平津さんの秦河勝に関する考察も大変おもしろかった。)
京都・太秦の広隆寺の建設にも関わったとされる。
聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と問うと、秦河勝がこの仏像を譲り受けて「岡寺(広隆寺)」を建てたという。
建設当初に本尊とされていた弥勒菩薩半跏像は国宝になっているが、これが秦河勝が聖徳太子から賜った仏像である確証はない。
(※京都の太秦といえば、太秦映画村。忠臣蔵の映画もここでたくさん撮影された。)
広隆寺は近いうちに訪れたいとおもっている。

というわけで、聖徳太子の腹心である秦河勝が陰陽五行説を学び、その後赤穂へ流れ着いたとすると、そこで陰陽道を研鑽していったとしたら、「播磨の国が陰陽師のふるさと」と言われても納得がいく。

秦河勝は後世で神格化され、北斗七星の神である宿神(しゅくしん)と同一視される。宿神はミシャクジ信仰につながる。

秦河勝は芸能の神としても信仰されている。世阿弥が記した能の理論書である「風姿花伝」には、聖徳太子が秦河勝に「六十六番ものまね」を作らせ、紫宸殿で舞わせたものが申楽(さるがく)の始まりとされ、申楽(猿楽・能楽)の祖とされる。

さて、申楽とは違うようだが、日本には神楽(かぐら)というものがあり、神道の神事で神に捧げられる歌と舞だ。
「かぐら」の語源は「神座」(かむくら・かみくら)が転じたもの。
古事記で有名な岩戸隠れの際、アメノウズメが神懸かりして舞った舞が神楽の起源とされる。
アメノウズメは日本最古の踊り子として芸能の神となっている。
また、天孫降臨の際には、道案内に来たという国津神の猿田彦と対峙している。その後、ニニギとともに天下ったアメノウズメは猿田彦と結ばれて、猿女君となったという。
神楽には、猿田彦とアメノウズメの物語が再現されるものもあるという。

このあたりの話をみていると、猿楽、猿田彦、アメノウズメ、神楽、芸能の神が連動してくるように思われる。

ちなみに、アメノウズメは岩戸隠れ、天孫降臨の際に乳房をあらわにし下半身もほとんどあらわにした状態で舞うのだが、M氏によると、
「カシオペアは、降りてくること、物質界に近づくことに関係する。とくにシェダルがそういう性質を持っている。これは乳房に関係し、子供を母乳で育てる。カシオペアの形はふたつの乳房なのだ。子供を育てるのは地上に新しいものを生み出すことを示すので、切り立った崖の北斗七星は、カシオペアとかかわると、なだらかな坂になり、地球とうまくつながるということなのかもしれない。」
ということで、私はアメノウズメとカシオペアを結び付けて考えることもある。

ここで、友人との話にもどる。
最初の話題は烏森神社。
烏森神社の祭神はというと。
ウカノミタマ(稲荷神)・アメノウズメ・ニニギノミコト。

ウカノミタマとは、伏見稲荷大社(京都)の主祭神。
秦氏系列の稲荷神社で主祭神となることが多い。
伏見稲荷大社の縁起(できたきっかけ)としては伊侶具が関わっている。
つまり、氏が関わっている。
餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。
これは伝説として残っているわけだが、M氏は餅や白鳥を物質的なものと捉えてはいけない、という。

また、伏見稲荷大社の祭神のなかに、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)があり、猿田彦の別名とする説もあるそうなので、ここで私が猿田彦と猿楽の祖の秦河勝を結び付けてもおかしくないのではないか。
(※もちろん同一人物としてではない、あくまで同一視、同系列ということ)

北斗七星とカシオペアのハイブリッドというのは、私のテーマであるので、今回、話がここまで進んだことが面白い。
ちなみに、友人もカシオペアくさい。
ここが面白い。

さて、その友人はどうやら大化の改新に縁があるようで。
ここまでの話をしている途中途中にその話がつっこまれる。
乙巳の変(いっしのへん)でほろぼされた蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があった奈良の某所と縁があると。

友:「奈良では中臣鎌足にいいように使われてたのかな、と思ったよ。わたし。
彼の範囲で育まれていた。わたし、明日香で色々やらかしたみたい〜大化の改新?」

友:「人は土地を訪れて何を回収して置いて帰るのだろうね。」

なかなか深いことを言う。

友:「蜂子皇子と蘇我も繋がってた!やばいな、蜂子皇子と聖徳太子は知ってたけれど。八咫烏もなんか書かれてるな。」

どうやら友人もWikipediaを改めて読んで、何やら気がついたようだが、この時のわたしにそこまでフォローする余裕はない。
すると友人、さらに

友:「昔、京都の広隆寺へガイアの法則の著者と行った時に、家紋は橘ですか?と聞かれ、答えたら『だと思いました。聖徳太子に関連するところは橘があるんですよ。』と。奈良に聖徳太子が生まれた寺が橘寺とかいう。」

私:「広隆寺へも行っとるんか!しかも千田さんと!?」

本当に不思議な友人。
わたしは、改めてこの友人となぜ縁ができたのか不思議に思う。
カシオペアつながりだけど。


さて、蘇我蝦夷は蘇我馬子の子であり、母親は物部守屋の妹。
出てきましたね。物部守屋。秦河勝が首を斬った。。。かもしれない。

また、蘇我蝦夷は息子の入鹿が亡くなった後、蝦夷は自宅に火をつけ自害したといわれる。このとき、古事記の編纂以前にあった「天皇記」や「国記」(聖徳太子と蘇我馬子が編纂した記紀)も焼失、行方不明となった。
(※アレクサンドリア図書館の焼失を思い起させる。)

この大化の改新で皇位についた、中大兄の皇子は天智天皇に。中臣鎌足は藤原鎌足。で藤原氏はこの後平安時代にかけて、繁栄していき藤原の道長の時代が最も栄えたと言われている。
その道長の呪詛を請け負ったのが、陰陽師の芦屋道満。見破ったのが安倍晴明。

というわけなのでした。

そして、この備忘録を書き始めたあと、また友人から連絡。

友:「烏森神社は烏森稲荷」
平安時代に東国で平将門が乱を起こしたとき、ムカデ退治で有名な将軍、藤原秀郷(俵藤太)が武州のある稲荷に先勝を祈願したところ、白狐がやってきて、白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東の乱を鎮めることができたので、秀郷はお礼に神社を立てようとしたところ、夢に白狐があらわれて、神鳥の群がるところが霊地だと告げた。そこで桜田村の森までくると、夢にみたように鳥が群がっていたので、そこに社頭をぞうえいした。それが烏森神社の起こり。

ありゃりゃ、平将門は妙見信仰ではなかったか?
平将門にまで波及したらもう収拾がつかない。

ところで、この話には、5,6,7,8,9の数字が絡んできます。

5安倍晴明の五芒星
6芦屋道満の六芒星
7北斗七星・お七
8八咫烏
9菊理媛・お菊のお皿9枚・キク

最後の9はなんだかわからないですよね。
この話は、9月9日にはじまったやり取りをまとめたものです。

9月9日重陽の節句。
この日は、菊を浮かべたお酒を飲む日。
菊の中には米という字。八が入ってます。
すでにみなさんお忘れかと思いますが、お菊井戸の話、残ったお皿は9枚です。
聖徳太子のいとこと言われる子皇子の伝説(秦河勝が立てた広隆寺の前の名前は岡寺)では、菊理媛が出てくるのだとか。。。
その伝説は、八乙女伝説。
(これに関しては、もう書く気力がございません)
そして、烏森神社に縁の深い家系の元の商売は米屋さん。


姫路城、菊理媛、瀬織津姫などの話はまた、まとまったら書きたいと思います。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?