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2024年5月 伊吹島

ジェットスターのバーゲンで成田~高松往復が安く買えた。さて、どこへ行こうか。前から気になっていた瀬戸内の島々へ行こう。まずは伊吹島。日本一のいりこで有名だが、漁は来月から9月まで。訪れるにはいい時期ではなかったと後で気づいたが止む無し。
飛行機が定刻より早めに着き、高松駅発の特急に間に合った。これだと観音寺駅に10時半に着ける。実は、伊吹島へは観音寺港から連絡船で渡るが、1日5往復、11時20分の後は15時40分まで便がない。それでもしょうがないと思っていたのだが、島に詳しい友人に紹介してもらった海上タクシーをやっている三好さんという方と連絡をとりあっていたら、迎えに行くから観音寺港まで来いという。
港で待っていてくれた三好さんは、観音寺は初めてかと訊く。初めてと答えたら、それなら銭形展望台は行かんとあかん、とこちら側に置いている車で連れて行って下さった。海に近い高台の公園。目の前に伊吹島が見える。

思っていた以上に近いところに伊吹島があった。
足下に見えるのが、砂で描かれた寛永通宝。横幅100m以上。江戸時代、藩主を歓迎するために造られたと説明板があったが、三好さんはそれはどうかなと言う。近くに、海路警備のための砲台を造営したときに地元の人を動員して造ったのではないかとの説もあるらしい。

さあ、それじゃあ島へ渡るか。島にはお昼を食べる店も商店もないからと、コンビニでおにぎりを買った。

三好さんは伊吹島出身。愛知県の会社で働き、自宅は今も愛知県だが、退職後単身で島に帰ってきた。故郷の島を活気づけたいと強馬力の船を買って仕事を始めた。島は好漁場、港の突堤でタイなどの大物が釣れるので釣り人に大人気。彼らの送迎が主な仕事。

島に近づくと、突堤で釣りをする人たちがいる。今日は8名、お客さんを運んだそうだ。船は北側の港、北浦港へつけるが、島の西側をぐるり回ってくれた。

伊吹島の海岸沿いにはいりこの加工場がずらり建ち並んでいる。現在、15軒の網元がカタクチイワシ漁をしており、それぞれが獲った魚を自前の加工場でいりこにする。沖合の漁場で母船が獲ったカタクチイワシを超高速船で島の加工場に運び、1分を争うかのように洗浄、煮る、乾燥の工程を行い、いりことして出荷される。その間、1日もかからない。鮮度勝負。

伊吹島は1400万年前に海底火山の噴火によってできた島。島の西側の崖は赤いが、溶岩の痕跡。さらに、島の最北に石門と呼ばれる景勝地がある。その沖が周囲より少し深くすり鉢状になっていて、かつての火口跡。そんな案内を聞かせてもらいながら、ぐるり東側の北浦港へ着岸。

こちらが名勝、石門。
石門近くの崖。ここを見ると地質学者は興奮するらしい。溶岩の間に白い地層があることで噴火が2度と分かる。さらにその下には火道というマグマが噴出した通り道が見える。

港から、軽ワゴン車で島内の非常に狭い道路を上っていく。三好さんの自宅は海岸線から割と近いあたり。分家だからだそう。本家は高台の一番上の方。分家になるにつれ下の方になっていき、分家の分家の…、だからこのあたりだ、と。近くに、伊吹産院跡がある。伊吹島では昔は出産前後の女性は出部屋と呼ばれる隔離小屋に籠もって女性だけで過ごす風習だった。昭和5年に恩賜財団の助成により、全国に先駆けて近代的産院になり、昭和45年まで使われた。その跡地に、5年前の瀬戸内芸術祭、通称瀬戸芸の時に産道をイメージした伊吹の樹という作品が据えられた。

伊吹の樹。作家は栗林隆。知らなかったが、有名な昆虫写真家栗林慧氏のご子息とのこと。

いや、それにしても道路が狭くて、くねくね曲がっていること。まるで城砦。と思っていたら、まさにその通りだった。今の行政エリアでは、香川県の西端となるが、その昔、瀬戸内海を二分する水軍、村上水軍と塩飽水軍が競っていたころ、この島は東の塩飽水軍の傘下だったが、ぽつんと孤立しており、より近い西の村上水軍に攻められたら援軍が来るまで持ちこたえなくてはならない。そこで島全体が堅牢な守りとなるよう造られたそうな。実は乗せてもらっている軽ワゴン車、両サイドは傷だらけ。どんなに注意深く運転しても擦ってしまうのだそうだ。
島の玄関口、真浦港を見下ろす高台に金田一春彦の歌碑。

伊吹島は言語学者にも有名な島。他では残っていない平安鎌倉時代のアクセントが今なお使われている。金田一春彦も調査のために来島したという。その時の歌を碑に彫ってある。三好さんらが歌碑建立のため奔走したとのこと。

真浦港へ下ると、神社の脇に恵比寿様を祀る小さなお堂。

木造の恵比寿様。10数年前に対岸の観音寺に、この像と対になる大黒様が祀られていることが分かったという。
漁協の応接室に、上の恵比寿像と対岸の大黒像の対面時の写真が飾られていた。
漁協前のいりこの説明書き看板。分かりやすくていい。

三好さんの丁寧な案内を聞いたので、つい本稿が長くなる。以下は端折って写真メインで島内案内とする。

旧小学校校舎内には瀬戸芸関連などの展示。現在、小学校は中学校の校舎に移っている。さて、黒板の内容だが、昭和30年代に人口4000人を越えていたという往時の賑わいを偲ばせる。ちなみに昭和26年生まれの三好さんもここの卒業生。当時は1学年2クラスだったそう。
3ヵ所ある太鼓蔵のうち1ヵ所だけ見られるから、と見せてもらった。太鼓というから和太鼓かと思いきや、神輿だった。年季の入った凝った造り。人口減により、担ぎ手不足が悩みのタネらしい。
現在は近代的な郵便局があるが、昔は網元の大邸宅の一角に郵便局が設けられていたという。その屋根の上に郵便マークの鬼瓦。
こんな感じの狭い道が曲がりくねって続いている。ここは緩やかだが、傾斜のキツい道も多いし、場所によっては狭い階段になっている道もある。
現在は公民館となっている建物。昔は日の出館と呼ばれた芝居小屋で、回り舞台や奈落もあったそうな。三好さんは子供の頃、よく遊んだという。
西の堂や荒神社などがある開けた所にバス停の看板。バスなど走れるのかと思ったら。軽自動車に、のりあいバスと書かれていた。あいにく日曜は運休。
島内めぐりの終点は一番高い場所に立つ伊吹島民俗資料館。昔は幼稚園だった。ここでおむすび食べて遅い昼メシ。三好さんは釣り客を帰すために仕事に戻った。写真は全盛時の網元、18軒あった。ちなみに一昨年の伊吹いりこの売上げは16億円、昨年は九州のいりこが不漁だったため、水揚高は変わらなかったが高値となり20億円とのこと。いい時ばかりではなく、不漁の年もあるそうだ。
伊吹産院が使われた当時の写真。左の2本の石柱は今も同じ場所に立っている。

坂道を真浦港方面へ下り、今夜の宿、春日旅館に向かった。お風呂に入ってから、夕食。

え、これってぼく1人の? と驚くほどの刺身盛合せ。メインは尾頭付きのアコウメバル。一般名はキジハタなのかな。上品な旨味十分。他に旬のサワラ、カンパチ、タイ、タコ。
こちらは焼き物。BBQコンロで焼くが、ピッカピカのサヨリも旨かったし、サザエもよかった。分厚いイカも、さらにタレを付けたアナゴもめっちゃ旨かった。
少し小ぶりなアコウメバルは煮付けで。これまた旨いなあ。
生ビールの後は、ヒレ酒ならぬいりこ酒。香りよく、ええ感じ。満足なり。

翌朝、朝食前に島内散歩。

宿を出ると、見上げるような急坂を登らざるを得ない。現在の島の人口は一応、400人程度とのことだが、実際に住んでいる数はどうなのか不明。
旧小学校校舎の前には、瀬戸芸の作品、トイレの家がある。実際にトイレとしても使用できる施設。様々なスリットは、島の時間と空間に関わっていて、冬至や夏祭り秋祭りの日の太陽の方向、あるいは東京、ロンドン、サンパウロなどの方向を示している。
伊吹小中学校。小学生4名、中学生4名が在校。校舎もプールも立派で驚いた。
島内には狭いながら空き地を利用した畑がたくさんある。野菜や花が植えられていて、彩りを与えてくれる。この花はゼラニューム系かな。
郵便局を背にしてY字路を見る。右手すぐに診療所。左手は今はやってないが商店があり、年金支給日には老人達で賑わった場所とのこと。かつての島一番の繁華街。商店がなくなって、現在では観音寺から移動商店が週に一度公民館前にやってくる。
ここも瀬戸芸の産物、いりこ庵。入口に明治大学の名前が記されていた。椅子が2台。風に吹かれながら、のんびり海を眺めるのは快感。
この後、訪れる予定の猫島、佐柳島ほどではないが、伊吹島にも猫は多かった。ほとんどが野良猫で、この子らはまだ見栄えいい方だが、栄養失調気味や毛がまばらな猫なども多い。
観音寺港から船で来ると、高台に向かって続く集落の中に緑の茂みが目立つ。そこが八幡神社の鎮守の森。一際大きい樹が本殿の右に立っている。
海際に立つ加工場の船着き場には、船からカタクチイワシを吸い上げて加工場に送り込むホースとポンプが設置されている。

宿に戻って、朝食。

いりこやチリメンが活躍する朝食メニュー。玉子焼きも美味しかった。

精算を済ませて、漁協で昨年のものだが大羽のいりこを1袋買って船を待った。

ニューイブキⅡ。
宿の女将さんにいりこを買おうと思うと言ったら、鮮度が落ちてるからあまりオススメはできないと言われ、1袋だけにした。600円。観音寺駅キオスクでは若干高い値で売っていた。

港から駅までは循環バスが出ているはずだが、乗り場が分からず、ええい歩くかと歩き始めたら、マイクロバスがやって来たので、慌てて引き返して乗車した。100円。

無事に乗車できてよかった。
観音寺駅。JR四国には様々な列車が走っている。アンパンマン列車もそのひとつ。

さて、多度津へ向かい、今日は佐柳島、高見島を巡る。


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