物事の多面性を意識する

こんばんは、今晩に何を書こうと昼間に思いついていたはずなのに忘れてしまったので、今ゼロから何を書くかを考えている栗山陽輔です。

そんなこんなで今日は「物事の多面性を意識する」というテーマで考えていきたいと思います。ちょっと難しいテーマですが、お付き合いください。

多面性です。
一言で言えば、物事には絶対的な正解も間違いも、良いものも悪いものもないということです。

例えば、今回のコロナショックというものも、受け取る側の意識や考え方によって色んな側面を見ている方々が大勢いらっしゃるように僕は思います。
もちろん、感染症というもの、ウイルスというものは人体にとっては害悪です。ウイルス全部を害悪というのはちょっと言い過ぎなんですが、今回の件に関しては実際に被害にあわれている方もいますし、間接的に経済的な打撃を受けている方も、生活に不安を抱えている方も多くいらっしゃると思います。
ですが、それはあくまで今回の件の一面であると思っています。
先に結論というか、ネタバレのようなことを言いますと、僕が今日の記事の中で言いたいことは、自分をいかに納得させるか、つまりはいかに自己肯定感を持って行動するための思考をするかという話です。ですので、はっきり言ってこの話が多くの方の心に響くかはわかりません。それぞれの状況や事情もあるでしょうし、それらをすべて踏まえて抽象化する作業はこの記事では行いません。
結局何が言いたいかというと、自分で自分を説得し、納得させる方法論のような話です。
こういった事態になった時、所謂社会全体が不安に包まれる事態になった時、過去の僕はネガティブではなくポジティブに考えることを意識していましたが、はっきりいってネガティブはポジティブよりも強いです。できる方もいらっしゃるかもしれませんが、僕の場合は対抗手段にはなりえません。
じゃあどうするかと言えば、ロジカルです。理屈です。
僕の論理は僕にしか通用しない可能性もまだ捨てきれないので、ここではニュートラルに考える、という意味で捉えていただきたい。もっと砕けた言い方をすれば都合のいい屁理屈です。でもそれを僕は是とします。

さて、話を戻しまして、今回の件。
悪い面なんて、だれの目にも明らかなので、そんな話は割愛しますね。
そして、そこからどうするか、という話。
違う方向から検証します。
極端に広い視点から見れば、感染症との戦いは人類の宿命のようなものです。狩猟採集民族であることをやめ、農耕民族として生きることを選んだ歴史上、戦い続けていた相手ですね。それはつまり、これまで人類が勝ち続けてきたという意味でもあるのですが。
話が広すぎるので、ちょっとフォーカスして。

例えば、この事態を予測した時点で、どれだけの人が行動に移していたか。

数か月前、武漢で発生というニュースが出た時、おそらく多くの人は「すぐに世界中で拡がるだろうな」と思ったでしょう。僕もその一人です。現代の交通網や世界の交易を考えれば、その予想はたやすい。でも、僕もそうですが、「まぁなんとかなるだろう」精神で今日まで過ごしてきた人が多いのではないでしょうか。
つまりですね、楽観的な考えでこの数か月を過ごしてきた人がほとんどだと思うのです。感染症が蔓延したら、どうなるかだいたいは想像つくでしょ? 数か月前から「もしかしたら」今のような状況になる可能性もあるだろうと頭の片隅に浮かんでいたかもしれない。でも、何もやってこなかった方が今困っている。
誤解を恐れないように言っておきますが、僕は何もやってこなかったけれど「たまたま」まだ困っていないだけです。

このことから、人間って、今を悲観的に考える能力は優れているし、同時に未来を楽観的に考える能力にも優れているんだなと思ったのです。

と、いうことは、言葉が見つからないのですが、何かを「正確に」とか、「負けないために」生きていくためには、意識的に、今を「楽観的に」、未来を「悲観的に」捉える必要もあるのではないかと思ったのですね。ニュートラルを意識するとです。

これ以上話を進めると終わりが見えなくなるので、ここまでをちょっと具体的に掘り下げて考えますが、例えば今を楽観的に考えるとはどういうことか。
僕の場合ですと、先日の記事でも書きましたが、「一日中家に籠っていることの罪悪感がなくなる」であるとも言えます。
一般的に、天気のいい休日に家に籠っている人間は「不健康」なイメージが付きまといます。ですが、元々家にいる時間が長い僕は今回のこの時間を、そういった意味で肯定的に捉えることができる。

他にも、例えば過去の僕だったら、役者として活動して僕だったらこの状況をどうとらえるべきか。

過去の僕のような無名の舞台役者にとって、一番の不安は次がないことです。一番精神が安定するのは、先々の出演予定がすでに決まっている状態です。つまりですね、過去の僕にとっては、役者をしていた頃の僕にとっては、「予定のない余った時間」というのが苦痛でしかなかったのです。忙しく、毎日寝る間を惜しんで稽古をしたり、作業したり、台本を読み込むのが普通で、そうでない時間は苦痛です。
何が言いたいかというと、まとまったゆとりある時間を自分自身が享受できなかったのです。ですので当時の僕はめちゃくちゃなスケジュールで仕事を受けていました。というかどれだけ忙しくても、基本出演依頼を断らなかった。それは怖かったからです。
僕のような考えをもった役者は極端化かもしれませんが、今の状態で、先々の仕事がなくなり不安に思っている役者さんや、他の職業の方々も多いかもしれません。
でも、過去の僕のような「時間」を恐れていた人間にとっては、今回の件は言わば「合法的な時間」です。
是非この時間を有効活用してください。
僕個人の、あくまで僕の意見ですが、自主映画監督としては、「役者以外の何かにおいての魅力」を持っている役者というのは、とにかく魅力的です。もし気が向いたら、他の何かに目を向けてください。


さてさて、そろそろ今日は辞めておきます。
この事態をどうとらえるか。それが先々には大きな差になって表れてしまうのが、現実の厳しさだろうなと思っている今日この頃です。

一芸に秀でている方ほど、ダメージが大きいのかもしれない。過去に一芸に秀でようとしてもがいて、結局秀でることができなかった僕が影響を受けていないのは少し考えることがあります。

今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。

それでは皆さん、よい夢を。

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