作品外の時間の獲得について

こんばんは、栗山陽輔です。
今月から新しい職場で働いていて、さすがに疲れているようで夕方からずっと眠ってしまっております。なので昨日今日とこんな時間に更新しております。

さて今日は「作品外の時間の獲得について」というテーマでお話しします。
作品作りに関するマジメ回です。生意気なことを書く恐れがありますご了承を。

さて、作品外の時間というのはどういうことかと言いますと、簡単に言うならば、映画などで「実際に作中には描かれていないけれど、観客が想像できる時間」のことを指します。
何故これが重要かと言いますと、いくつか要因があると思うのですが、まずわかりやすいのが作品の間延び感の制御です。

例を挙げます。

例えば、刑事ドラマのような作品を作ったとする。犯人が子供を車に乗せて誘拐した。子供から家の電話番号を聞き出し、家に連絡する犯人。その電話を取った母親はショックのあまり身体が震えだす。身代金の要求がある。乱暴に切られる電話。パニックになりながらも父親に電話をかける母親。警察に連絡するように諭され、警察に連絡する。そうして主役である刑事が登場。被害者宅に刑事が何名か派遣され、逆探知装置なども準備される。そこに犯人から更なる電話が掛かってくる。電話をとるのは母親。刑事は、警察の介入を隠すよう母親に指示し、母親は緊張した面持ちで犯人の要求を聞く…
というような筋のストーリーを作ったとする。べたすぎますがまぁ、例えなので。
さぁ、実際これらを作品にするとき、このまま全てを描いてしまったら完全なる間延びです。何故なら、観客にはもうこの流れが予想できるからです。

なのでこれを映像作品とする描き方を考えるならば、歩いている子供が突然車に乗せられ連れ去られるシーンの後に、鳴っている電話が映り、その電話が母親がとり、その母親の傍らではすでに刑事が固唾をのんで犯人と母親の会話を聞いている、というシーンになっても成り立つわけです。

これは情報量の制御と言い換えることもできて、子供が連れ去られた時点で誘拐という情報は存在し、電話が鳴り母親が撮った時点で誘拐事件の身代金要求のようなものが想像でき、その傍らに刑事たちが固唾をのんで見守っているだけで、刑事たちが警察の関与を犯人に隠して操作を進めている緊迫感というものを含めた情報がすでに提示できるわけです。
シーンとシーンの間にある物語を、観客が想像できるというわけですね。

昔の映画やドラマを見た時に、妙に古臭く、長いと感じることはたまにあると思います。

それは昔と今の観客の、常識的な想像力に差があるからなのですね。

この例は、作品外の時間の考え方のかなり外側の話だとおもうのですが、作品外の時間を如何に獲得するかで、作品自体の厚みのようなものはかなり変わってくると僕自身は考えております。

そういった視点を意識しながら、名作と言われる作品を見直してみたりすると、獲得の仕方が見事だったりしてまた新たな面白さを感じることもできたりします。
おすすめですよ。

作品外の時間の獲得については、また折をみて掘り下げていこうかと考えている今日この頃です。

それでは皆さん、よい夢を。

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