見出し画像

僕にとっての写真というものについて

こんばんは、昨今は外出しにくくて困っちゃうなと思っていたけれど、考えてみれば普段から一か月に一回程度しか休日に外出せず、家で一人で過ごすことが当然だったことに気づいた栗山陽輔です。全然影響受けてないやん。

さて、今日はちょっとやることがあって、一日中打ち込んでいたらいつのまにかこんな時間になっていて、いつもより遅い時間に更新であります。ご了承を。

今日は「僕にとっての写真というものについて」お話しさせていただきたいと思います。僕自身の自称写真家としてのお話しです。

まず、僕は今は別に自称写真家なんて名乗ってもいません。
あと、自称写真家と名乗ると、一部の人に怒られるらしいです。
余談ですが「写真家」というのはある特定の協会に認めてもらえた人しか名乗ってはいけないものであるらしく、自称写真家と名乗っていると、協会に認められた「写真家」さんからお叱りを受けることもあるそうです。僕自身はそんな経験はないのですが、SNSで知り合った方から教えてもらったことがあります。
その話を聞いたときに、あまりにも馬鹿らしいから逆にあえて堂々と「自称写真家」とプロフィールに書いていた僕なのですが、写真自体は役者を始める以前から始めていました。

以前にも似たようなことを書いたこともあるのですが、僕が写真を始めたきっかけは、完全に「女性目的」でした。

大学に入学して間もなく、キャンパス内で見かけた超美人な先輩女子大生に一目惚れし、その方が写真部であることを突き止め、若さと勢いで写真部に見学に行ったことがきっかけです。

そうは言っても、こうして写真部に入部したことで、写真部の先輩に大阪の演劇を観に行こうと誘われ、その公演の挟み込みチラシにあったワークショップに参加することで僕の役者活動は始まり、その後ほとんど大学にもいかずに役者活動ばかり続けて二年程で20本以上の舞台に立たせていただいた経験に繋がるのですね。

まぁそれはそうとして、写真を撮ることも続けていました。

僕は今は一応、自主映画監督とプロフィールには書いているのですが、写真を撮ることと、映画を作ることにおいて、「喜んでくれた人の数の割合」で言えば、もしかしたら写真の方が多いかもしれません。
写真に関しては、どこかの賞に送るとか、本当に興味なかったので、受賞歴みたいなものは少ないのですが(一度だけ、とある賞に半ば無理やり送って佳作をもらったこともある)映画に関しては、制作段階から映画祭に送ることも決めていたりするので、僕の中では、この二つは完全に「別の」活動です。

僕は写真に関して言えば、「人」以外は撮りません。
これは最初から決めていたわけでもなく、元々は風景などを細々と撮っていたのですが、ある時をきっかけに、明確に確定したものです。

画像1

そういった僕の心境の変化は今書くつもりもないのですが、不思議なことにですね、感覚的に、何も考えずに感情の赴くままに活動していたら、喜んでくれる人が増えていったのが僕にとっての写真活動なんです。

誤解を恐れずに言いますが、僕にとっては写真を撮ることで、どうして多くの方が褒めてくれるのかわかりませんでした。

撮りたいようにとって、自分でこれがいいと思ったものを発表する。それを多くの方が褒めてくれる。

大学の写真部の展示会などで褒められることも多く、アンケートの評価も高く、なんというか僕はたぶん写真に関してだけ、感覚的に捉えている何かが、僕以外の誰かに響く分野であると自覚しているのです。

画像2

はっきり言って、僕自身は、僕の写真の、何が良くて何が悪いのかを説明することが全くできません。
理屈は全く皆無なのです。
全てにおいて感覚的なものなんです。ですから、ちょっと見識がある方から展示会で褒められた際などに、「どういう思いでこの写真を撮ったの?」とか訊かれたことがあるのですが、そういった時に全く答えることができなかった経験もあります。

感覚的と言えばある程度聞こえはいいかもしれませんが、それを言葉にするならば「いや、なんとなく」となってしまうのですね。

一度、学生の頃の学外展で、京都の三条通にあるギャラリーで展示会をしていた際、僕の写真になにやら興味を抱いてくださった方に色々質問を受けた経験があるのですが、僕の中ではその経験は、興味を持ってくれたことは嬉しかったのですが、何一つ具体的に答えることができなかった不甲斐ない思いを抱いた経験でもあります。

僕は、今でも自分の写真が「こうこうこういった理由でこの写真を撮ったんだ!」って説明できないんですよ。

途方もなく感覚的でセンシティブなものなので、仕事にもしたくないし、撮りたくない写真は一枚たりとも撮りたくないと十五年前から変わらず思っている今日この頃です。

何回かね、僕に写真の仕事を回してくれた先輩もいたんです。今思えば感謝しかないのですが、あまりにも要求に答えられなかったことが辛う記憶となっています。誰かの要求に答えるという作業ができなかったのですね。それは僕にとって写真というものがどこまでも感覚的だったからです。

ちょっと珍しいですが、この記事には何枚か僕の写真を載せておきます。少しでも気に入っていただけたら嬉しいです。

画像3

今日も最後まで読んでいただきありがとうございます。

それでは皆さん、よい夢を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?