そこに誰が座っているのか

こんばんは、数日前から幼少期の頃の記憶を辿っている栗山陽輔です。
あんなに大きかったように感じていたものが、小さく感じる年齢になってしまいましたなぁっとしみじみしています。

今日は「そこに誰が座っているのか」というテーマでお話しします。

今日の話はちょっとこっ恥ずかしい話でもあるのですが、僕は基本的に何か作品を作ったり発信したりする際、誰かの顔を思い浮かべて作っています。これは綺麗ごとでもなんでもなくて、不特定の誰かではなく、名前は出せないけれど具体的な「誰か」一人のためです。もちろんそのコンテンツ毎に思い浮かべる顔は違いますが、多く見積もってもその合計はたぶん10人もいかないくらいです。

それはつまり、その具体的な誰かひとりに対して伝えたいことだったり、その人のことを考えているときに思い浮かぶことだったりするのですが、一番多いのはその誰かに対して「僕は今はこんな風に考えられるようになったよ」というようなものだったりします。

なんかもうこの時点で恥ずかしさを通り越して自分で自分が気持ち悪く感じ始めているのですが、まぁ正直なことでもあります。

変な話、ここで書いている文章でもその誰かの具体的な顔が思い浮かんでいない時というのは、なんだかあやふやでよくわからない文章になっていたりするのですが、それらは結局自分自身への文章にしかなっていなかったりするからです。

これもまた僕の考えなのですが、自分へのベクトルがゼロの作品はダメだと思っていますし、僕は絶対にそんな作品は作りません。というか作れません。

例えば僕が映画を作るとなったとき、まっさらな状態から作り始めるのですが、イメージとして、僕は小さな映画館のような場所を想像するんですね。
その小さな劇場に、その客席に、誰が座っているのか。そこに僕は本当に数人しかイメージできなくて、客席はガラガラだったりするのですが、本当に具体的に「あの人と、あの人と、あの人たちは座っているな」というのがイメージできることがあるのです。
そしてその客席の一番後ろに僕は立っている。そしてスクリーンに作品が上映される。そんな光景が思い浮かぶとですね、次の作品のイメージが自然と浮かんだりすることがあるのです。

なんだかちょっとクサい文章になっているかもしれませんが、この話で重要なことは二つ。
客席に座っている誰かの顔を思い浮かべられているかということと、一番後ろに僕自身がいるかということです。

その場に僕しかいない作品を作ることはしてはいけないと思っていますし、その場に僕がいない作品を作りたくはありません。

そして客席に誰が座っているかをイメージできていないと、今日のこの文章のようなものになってしまったりしなかったりします。
本当もう、僕以外誰がこんな文章を理解できるのだよという疑問がわいてきている今日この頃です。

でもね、僕はこの話、大事なことだと思っているのですよ。

ま、こんな考え方で、僕の次の映画はあの人とあの人に客席に座っていてほしいという思いを持っていたりしているので、まずはその二人に向けて作っていこうかと思っています。そんなこと、もちろん本人たちには伝えないのですがね。どう頑張っても伝えられない場合もありますし。

今日は本当に変な話をしてしまいました。ちょっと怪しいというかアブナイと思われてしまうかな。まぁ、イメージの話ですから。

それでは皆さん、よい夢を。

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