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【映画分析】アリータ: バトル・エンジェル ~作品の面白さを考える~

作品の面白さを分析、解体、言語化する意味

こんにちは栗山陽輔です。今日は以前に予告した映画分析なるものを書いていこうかと思います。

映画分析、つまりは作品のどういった部分に心動かされ、感動し、のめり込み、カタルシスがもたらされるか、といったことを構造的に把握し、解体し、言語化することです。

この記事は、映画に込められた深い意味や物語を掘り下げる考察や解説や、その映画の素晴らしさや魅力を伝えるためのオススメのような記事ではありません。あくまで分析です。

何故そんな作業をするかと言えば、第一に再現性の獲得のためです。
あくまで僕自身の考え方ですが、作品作りにおいては何故そのシーンがそうなるのか、何故そう形作られるのかの具体性を持っておかなければいけないと思っています。でなければ、いくつもの作品を世に送り出すことができなくなるのです。
世の中には感覚で何かを形作れる人も勿論いらっしゃいますが、感覚で作り続けることは至難の業です。

何がどうなるから面白いのか。どうなってしまったから面白くないのか。
それらの再現性を得るため、または再現させないため、言語化できるほど分析、解体は必要な作業であると僕は考えているのです。

アリータ: バトル・エンジェルについて

そういうわけで映画分析なるものを記事として書いていこうかと考え、本日の記事がその第一弾となります。取り上げる作品は「アリータ: バトル・エンジェル」

自分としても最初の作品のチョイスには迷ったのですが、アリータに関してはとてもシンプルに秀逸なシーン、ストーリーテリングが素晴らしい部分がありますので、最初の記事として書くにはわかりやすく、分析というものがどういったことなのかが伝わりやすいのではないかと考えました。
この作品は日本のSFマンガを原作としている映画ですが、僕は原作マンガは未読です。あくまで映画として考えていきます。

では、始めます。

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今回取り上げるのは映画の冒頭シーン。
映画会社のロゴが出て、映画が始まる。
SF映画らしい、年号の表示からスタート。
空に浮かぶ美しい近未来的な都市の光景。
そしてそこから地上に落ちていく無数のゴミ、スクラップ。
その地上のスクラップの山の中を、何かを探すように歩いている初老の男。

ここまではSF映画ではよく見かける世界観の提示です。引きの画での都市全体の光景。そこと対比的に描かれるスクラップの山。近代都市の光と影。言い方はあれですが、ある意味「お馴染み」の光景が続きます。

その後、男が人間の頭蓋骨のような機械部品を取り上げる。
そこから目玉の部分を抜き取り、布で包んで鞄に入れる。

このことから男が「スクラップの山でロボットかサイボーグなどの部品を探している男」だとわかる。(男の行動の動機の提示)

その直後、男はあるものを発見する。

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スクラップの山に埋もれた、人の顔。

この時点で細かいことを上げていきますと、観客の頭の中で、人か、人形か、はたまたロボットかという疑問がわきます。ですが直前にロボットの頭部の部品が提示されていることから、これがロボットであるだろうというディレクションが成立している。つまり、この時点で観客の頭には、スクラップの山の中に、明らかに綺麗な、はっきりとした形をとどめているロボット、ないしはサイボーグが男によって発見されたという情報が刻まれるのですね。

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周りにある瓦礫を取り除く男。
無残な姿がさらされる。やはりロボットであったという答えとともに、頭部と胸部以外は存在していない程、破壊されていることがわかる。

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それにも関らず彼は、何かの機材でそのロボットを調べ、

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「生きてるのか」という言葉を発するのであります。

これが本当に素晴らしい。とてつもない情報量。そして情報の数の少なさ。このストーリーテリングが秀逸なのであります。

情報数と情報量の関係性

さて、この「生きているのか」という台詞はこの映画の最初の台詞です。そしてここの台詞が発せられたのは映画が始まって二分です。映画会社のロゴの映像なども含めますので、結局のところここまで長く見ても一分半ほどしかかかっていません。にも関わらず、提示された世界観の情報は膨大です。

さぁ、ではもし、このセリフが「生きてるのか」ではなかったらどうだったでしょう。

例えば「何だこれは」だったなら?
「動いているぞ」だったなら?

是非想像してみてもらいたいのですが、こういった台詞だった場合、もっとも違う情報はこの世界における「死生観」と「常識」です。
ここで「生きてるのか」という言葉を発することで、明らかに人間ではない存在に対して、生死の概念が与えられている世界であることが提示されるのです。細かく言えば男が使ったスキャナのような機械に一瞬、脳みそのイメージが映し出されているので、脳は存在し、脳以外が機械であるサイボーグだと判断でき、さらに脳さえ活動していれば「生きている」と判断される世界であり、また男が「生きている」という事実に驚きながらも受け入れていることから、脳さえ生きていれば、また人間として生活ができるのだろうという常識が暗示されているのですね。(この暗示はストーリーの後半の展開に繋がる)

たった一つの台詞で、情報量は大きく変わります。
スクラップの山から珍しいものを見つけたから「何だこれは」
明らかに壊れている機械なのに活動しているから「動いているぞ」
これらは間違いではありませんが、内包する情報の量が違うのです。

一つの台詞という同じ情報の数においても、伝えられる、内包させられる情報量は全く違います。
情報量の制御という言葉は作品づくりにおいてよく聞く言葉なのですが、「アリータ」のこの冒頭シーンは、情報の数と情報の量の関係性の把握が必要なのではないかと気づかせてくれます。

伝えなければならない情報というのは作品には必ず存在しますが、多くを伝えるために情報の数を多くしたのでは、情報過多となり受け入れてもらうことが難しくなります。ですが、少ない手数で多くの情報を伝える術も存在するのだと意識していくことは、情報制御における一つの方法となりうるのではないかと考えています。

説明台詞ばかりが続く作品だと、置いてきぼりにされてしまうことって多いですからね。

映画分析記事の今後について

さて映画分析、いかがだったでしょうか。
たった二分程の内容でこんだけ文字数かけないといけないとか色々と大変なのですが、今後も続けていこうと思います。
ここに書いてあることは、もちろん全て僕個人の意見です。生意気な部分も、至らない部分も、飛躍している部分も、実は理解できていない部分も多数存在するでしょうし、人によって考え方は様々なことは百も承知です。あくまで僕自身の考えであることをご理解いただければ幸いです。

アリータに関しては、今後取り上げるつもりはないので(冒頭だけで終わってしまっていいのかという思いもあるにはあるのですが)、また次回は違う作品を取り上げます。作品によってはいくつかの記事で連続して取り上げることもあるかと思います。

映画分析記事については週に一回ほどのペースで書いていこうと考えている今日この頃です。

いやぁ、映画って本当に奥が深いものですね。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

それでは皆さん、よい夢を。


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