本来の意味と、内包する別の価値

こんにちは、昨日から手塚治虫先生の「火の鳥」を人生で初めて読んでいるので、今何かしらの文章を書いていくと「生きるとは何か」みたいなものになってしまう気がして自分の中でブレーキをかけています。なので今日は何をテーマにして書こうかかなり悩んだのですが、悩んだ末に「電子書籍が売れない理由」について書いてみようと思います。

なんでいきなり電子書籍の話かというと、「火の鳥」を僕は電子書籍で読んでいるからです。そうです、話を無理矢理に繋げています。

さて電子書籍。年々売り上げは伸びているそうですが、未だに市場は紙の本が主体です。今年はコロナの影響もあったりしてもしかしたら少しは増えたりするのかなと思ったり思わなかったりなのですが、前年の売上は紙の本の四分の一ほどだったはずです。

これほどネットが普及し、ニュース、情報をスマホで閲覧し、本屋さんがつぶれている時代に、何故まだ紙の本が主体なのでしょうか。
一度使ってみればわかることですが、キンドルなどで購入すると、購入して数十秒後には読むことができます。パソコンでもスマホでも読める。それにかさ張らない。何冊でもスマホさえあれば持ち運べる事と同じ。それなのに何故電子書籍の売上はまだ紙の本に及ばないのか。

紙でないと目が滑って文章が読みづらいという人もいます。さらに本はやはり紙の本で、家の本棚に並べておかないとという趣向の人もいます。
それらの気持ちはわかりますが、根本的には、本というものの価値の違う側面を感じているからだと僕は思うのです。
ちょっと誤解を招く言い方かもしれませんが、紙の本は、本を読んでいる自分を演出できる道具でもあるのです。

何を言っているんだと思われるかもしれませんが、紙の本を読んでいる人は、周りから見ると本を読んでいる人ですよね。
でも電子書籍をスマホで読んでいる人は、周りから見るとスマホを見ている人なんです。

つまり紙の本は、本を読んでいる姿を作り出す、ファッション的な、アクセサリ的な側面をも内包しているんです。

本を読んでいるという姿は、今の時代においてもやはりどこか「知的」なイメージは付きまといます。映画とかドラマでも本を読んでいるキャラクターというのは、読んでいないキャラとは違うイメージを抱きやすいものです。メガネとかも近いですね。何人かのキャラクターが出てきて、その一人がメガネをかけていたら、大体そのキャラは知的か真面目か、もしくは真面目過ぎてどこか抜けているとかそういったイメージが先行してきます。

そういったモノの価値が本来のところから少しはずれたところに発生していることは、意外とあるものです。

例えばCD。僕が子供の頃、CDが一番売れた時代というのは、同時にCDラックも売れ、多くの種類のラックが売られていました。つまりはあれ、CDがインテリアとしての価値を内包していたんですね。オシャレな部屋には、綺麗にかっこよく並べられたCDがたくさんあるものだったのです。

これは本にも言えます。お気に入りの本は家の本棚に並べておきたい。背表紙を眺めていても大した意味はないでしょう。でも、そこにあることが大事なのです。インテリア的側面と言える部分もあると思います。

こんな風にモノには本来の意味合いとはズレた場所にも価値が発生することがある。そのことは意識していきたいなと考えている今日この頃です。

僕は本に対しては割と実用性を求めてしまうタイプなので、電子書籍はすんなりと受け入れたほうなのですが、あまりにも気に入った本はそこからさらに紙の本でも買ってたりするので無駄な出費がかさむこともあるのは時々反省していたりします。

「火の鳥」はこれ、紙の本で家に置いておきたいなと思っているので、いつか買いたいのであります。

今日はそんなお話しでした。

それでは皆さん、よい夢を。


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