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グレゴリオ1世

ヨセフ・ラッツィンガー氏(名誉教皇ベネディクト16世)の一般謁見演説より、グレゴリオ1世を扱いたいと思います。

以下、引用となります。

教皇になると、グレゴリオは司教たちにこう勧めました。公務員に見られる勤勉さと法の尊重を、教会を統治する際の模範としなさいと。公職の生活はグレゴリオの心を満たしませんでした。間もなくグレゴリオは、公務を離れて自宅に退き、修道生活を始めることを決断しました。そのためにグレゴリオは家族の家をチェリオの聖アンデレ修道院に変えました。グレゴリオは修道生活の中で、主と絶えず対話し、主のことばに耳を傾ける生活を送りました。グレゴリオはいつもこの時期を懐かしみます。グレゴリオはこの思いを説教の中で繰り返し表明しています。司牧のために心を砕くただ中でも、グレゴリオは著作の中で、修道生活を送った頃のことを、幸いな時期として何度も思い起こしました。修道生活において、グレゴリオは神に精神を集中し、祈りに身をささげ、落ち着いた心で勉学に励みました。こうしてグレゴリオは聖書と教父に関する深い知識を得、後にこの知識を著作の中で用いることができました。

「教皇大グレゴリオ」より

しかし、グレゴリオの隠世生活は長くは続きませんでした。グレゴリオは深刻な問題を抱えた時期にあって公職を務めることによって貴重な経験を積みました。この職務の中で東ローマ帝国とも関係をもちました。また彼はだれからも名声を得ていました。そこで教皇ペラジオ(Pelagius II 在位579-590年)はグレゴリオを助祭に任命し、(現代の教皇大使にあたる)教皇特使(apocrisiarius)としてコンスタンチノープルに派遣しました。それは、単性説論争の最後の影響を克服し、また何よりもランゴバルド族の侵入に対抗するために皇帝の支持を得るためでした。コンスタンチノープル滞在中、グレゴリオは修道士のグループとともに修道生活を再開しました。このコンスタンチノープル滞在は、グレゴリオにとってきわめて重大な意味をもちました。なぜなら、グレゴリオは、東ローマ世界を直接に体験し、またランゴバルド族の問題に直面したからです。ランゴバルド族問題は後に、教皇となったグレゴリオの能力と力を厳しく試すことになります。数年後、教皇はグレゴリオをローマに呼び戻し、秘書に任命しました。それは困難な時期でした。長雨が続き、河川が氾濫し、飢饉(ききん)がイタリアの多くの地域、またローマをも襲いました。ついにペストまでもが流行し、多くの死者を出しました。死者の中には教皇ペラジオ二世も含まれました。司祭、民衆、元老院は一致して、ペラジオ二世後のペトロの座の後継者として、ほかならぬグレゴリオを選びました。グレゴリオはこれを拒み、逃亡まで試みましたが、すべては効を奏さず、ついにグレゴリオは教皇職を受け入れました。590年のことでした。 

「教皇大グレゴリオ」より

聖グレゴリオは、純粋に霊的・司牧的な活動だけでなく、さまざまな社会事業を積極的に推進しました。イタリア、とくにシチリアにローマ聖座が所有する莫大な土地の収益によって、グレゴリオは小麦を購入して分配し、貧しい人を援助し、困窮した司祭、修道者を助け、ランゴバルド族に捕らえられた市民の身代金を支払い、休戦・停戦を実現しました。さらにグレゴリオは、ローマでも、イタリアの他の地域でも、熱心に統治組織を回復するよう努め、そのために詳細な指示を与えました。それは、教会の維持と世における福音宣教活動のために有用な教会財産を、完全な正義に基づきながら、公正とあわれみの原則に従って管理するためです。グレゴリオはこう命じました。教会が所収する土地の使用人の横暴から小作人を守りなさい。不正を行ったときはすぐに弁償しなさい。それは、不誠実な富によってキリストの花嫁の顔が汚されないためです。

「教皇大グレゴリオ」より

すぐに人々がグレゴリオに「神の執政官(consul Dei)」という称号を与えたのは偶然ではありません。グレゴリオはきわめて困難な状況の中で活動しなければなりませんでした。しかし彼は、聖なる生活と豊かな人間性によって、信者の信頼を得、自分の時代と未来のためにまことに偉大な実りを残すことができました。グレゴリオは神に満たされた人でした。グレゴリオの心の奥深くにはつねに、神の望みが生きていました。だからこそグレゴリオはいつも隣人のそば近くにいて、当時の人々の求めにこたえたのです。荒廃と絶望の時代の中で、グレゴリオは平和をつくり、希望を与えることができました。この神の人は、平和のまことの源泉のありかをわたしたちに示します。この平和のまことの源泉が、まことの希望を生み、そこから、現代のわたしたちをも導いてくれるのです。

「大聖グレゴリオ」より

大グレゴリオは、ローマ司教の職務に関連してさまざまな仕事を行いましたが、多数の著作も残しました。グレゴリオ以後の時代の教会は、これらの著作をすべて受け入れました。厖大(ぼうだい)な書簡――先週の講話で言及した『書簡摘要』(Registrum epistularum)は800通以上の書簡を含みます――のほか、大グレゴリオは何よりも聖書釈義の著作を残しました。その中で際立っているのは、『道徳論(ヨブ記注解)』(Moralia sive expositio in Job)というラテン語の標題で知られる、ヨブ記の道徳的注解と、『エゼキエル書講話』(Homiliae in Hiezechielem)、『福音書講話』(Homiliae XL in Evangelia)です。さらに『対話』(Dialogi)という、重要な伝記的著作があります。グレゴリオはこれをランゴバルド族の王妃テオデリンデのために書きました。もっとも有名な主要著作が『司牧規則書』(Regula pastoralis)であることは間違いありません。

「大聖グレゴリオ」二、より

これらの著作を足早に検討するに際して、何よりも注意しなければならないことがあります。それは、グレゴリオが自分の著作の中で、「自分」の教え、すなわち自分独自の教えを述べることに関心をもたなかったと思われることです。むしろグレゴリオは、教会の伝統的な教えを繰り返すことを望みました。すなわち彼はただ、神に達するために歩むべき道について語る、キリストと教会の口となることを望んだのです。そのよい例が彼の聖書釈義です。グレゴリオは熱心に聖書を読みました。グレゴリオは思弁的な理解だけによって聖書に近づきませんでした。グレゴリオの考えはこれです。キリスト信者は、聖書から、理論的知識だけでなく、自分の霊魂のための、すなわち、この世において人間として生きるための、霊的糧を引き出さなければなりません。

「大聖グレゴリオ」二、より

ただ自分の知的欲求を満たすだけのために聖書に近づくなら、傲慢の誘惑に陥り、異端となる恐れがあります。聖書から流れ出る超自然的な富を究めることを目指す人にとって、第一の規則となるのは、知的な謙遜さです。もちろん謙遜は、真剣な勉学を排除するものではありません。しかし、真の意味でテキストの深みに達し、霊的な益を得るために、謙遜は不可欠です。謙遜という内的な態度をもつことによって初めて、人は真の意味で神の声を聞き、理解します。また、神のことばが問題となるとき、理解したことを実行に移さなければ、理解には何の意味もありません。

「大聖グレゴリオ」二、より

グレゴリオは心の中で単純な修道士であり続けました。だからこそ彼は立派な称号にはきっぱりと反対しました。グレゴリオは――これは彼のことばですが――「神のしもべたちのしもべ(servus servorum Dei)」であることを望みました。グレゴリオが造ったこのことばは、空疎な表現ではなく、彼の生活・行動様式を真の意味で示すものでした。グレゴリオは神のへりくだりに心を打たれました。神はキリストのうちにわたしたちのしもべとなったからです。神はわたしたちの汚れた足を洗ってくださいました。そして今も洗ってくださいます。そこでグレゴリオはこう確信しました。何よりもまず司教は、神のへりくだりに倣い、そうすることによって、キリストに従わなければなりません。グレゴリオの望みは、修道士として生活し、神のことばといつまでも対話することでした。しかし彼は、神への愛のゆえに、不安と苦しみに満ちた時代の中で、すべての人のしもべとなることができました。「しもべたちのしもべ」となることができました。だからこそ、グレゴリオは偉大であり、わたしたちにも真の偉大さの基準を示してくれるのです。

「大聖グレゴリオ」二、より

次回は、コルンバヌス(Columbanus 543頃-615年)を取り上げます。

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