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ボエティウスとカッシオドルス

ヨセフ・ラッツィンガー氏(名誉教皇ベネディクト16世)による、バチカンにおける一般謁見演説より、今回は、ボエティウスとカッシオドルスを取り上げます。

ボエティウスのもっとも有名な著作が『哲学の慰め』(De consolatione philosophiae)であることは間違いありません。ボエティウスはこの著作を獄中で著しました。それは不当な拘留を意味あるものとするためでした。実際彼は、友人である元老院議員アルビヌス(Albinus)の裁判を弁護するために、テオドリック王に陰謀を企てた罪で告発されていました。しかしこれは口実にすぎませんでした。実際には、アレイオス派で蛮族のテオドリックは、ボエティウスが東ローマ皇帝ユスティニアヌス(Justinianus I 在位527-565年)と同調しているのでないかという疑いを抱いたのです。実際、ボエティウスは裁判にかけられ、死刑判決を受けると、524年10月23日、わずか44歳で処刑されました。この悲劇的な最期のゆえに、ボエティウスは心からその経験を現代人に、とくに多くの地域で「人道上の」不正に苦しむ多くの人々に、語りかけることができます。『哲学の慰め』の中で、獄中のボエティウスは、慰めと、光と、知恵を探求します。ボエティウスはいいます。まさにこのような状況の中で、わたしは見せかけの善――それは牢獄の中で消え失せます――と、真の善を区別することができます。真の善とは、たとえば真実の友愛です。真実の友愛は、牢獄の中でも失われることがないからです。最高の善は神です。ボエティウスは、運命論に陥らないことを学び、またわたしたちに教えます。運命論は希望を消してしまうからです。ボエティウスはわたしたちに教えます。わたしたちを支配するのは運命ではなく、摂理であるかたです。そして摂理であるかたはみ顔をもっています。わたしたちは摂理であるかたと語ることができます。摂理であるかたは神だからです。だから、獄中にあっても祈ることができます。わたしたちを救ってくださるかたと対話することができます。

一般謁見演説より

『哲学の慰め』の最後の弁明は、ボエティウスが、自分自身と、同じような境遇に置かれたすべての人に向けた教え全体のまとめと考えることができます。ボエティウスは獄中にあっていいます。「だから、あなたがたは悪徳に逆らい、徳性を養い、心を正しい希望へ高め、つつましい祈りを天にささげなさい。あなたがたが偽ろうとしないかぎり、あなたがたは誠実への大きな必然性を負わされています。あなたがたは万物を見通す裁き主の目の前で行動しているからです」(同:ibid. V, 6, PL 63, 862〔前掲渡辺義雄訳、433頁。ただし表記を一部改めた〕)。拘留された者は皆、いかなる理由で拘留されようとも、この人間の特別な状況がどれほど辛いものかを知っています。とくにボエティウスと同じように、拷問が行われ、状況がいっそう悪くなった場合にそれがいえます。とくにこのボエティウスの場合のように、自分の政治的・宗教的信念のみを理由に、拷問によって殺害されるような状況はいっそう不合理です。ボエティウスはパヴィアの町で信仰のための殉教者として典礼で記念されます。ボエティウスは、すべての時代、すべての地域で、不当に拘留された数多くの人々の象徴です。実際、彼は、わたしたちをゴルゴタの十字架の神秘の観想へと導く、この上ない入口です。

一般謁見演説より

カッシオドルスの考えは、古代の膨大な文化遺産が失われないために、これを修復し、保存し、後代に伝えるという課題を修道士にゆだねるというものでした。そのために彼は「ウィウァリウム」を創立しました。「ウィウァリウム」は一種の修道院です。この修道院は、何よりも修道士の知的活動を貴重でかけがえのないものと考え、これを推進することをめざしました。カッシオドルスはまた、知的な教育を受けていない修道士も、農作業のような身体的労働に従事するだけでなく、写本の筆写を行うようにさせました。こうして偉大な文化を後の世代に伝えるのを手伝わせたのです。以上のことが、霊的・修道的・キリスト教的務めや、貧しい人に対する愛のわざをなおざりにすることなく行われました。カッシオドルスの教えはさまざまな著作の中で、何よりも『霊魂論』(De anima)と『(聖書ならびに世俗的諸学研究)綱要』(Institutiones divinarum et saecularium litterarum)において示されました。この教えによれば、聖書、とくに詩編の熱心な観想によって養われる(PL 69, 1149参照)祈りは(PL 69, 1108参照)、すべての人を養う糧としてつねに中心的な位置を占めます。たとえば、このカラブリアの教養人カッシオドルスは『詩編講解』(Expositio Psalmorum)の序文でこう述べます。「わたしはラヴェンナでの政治的職務の要求を捨ててこれを後にしました。これらの職務はこの世の心配によって不快な味がしたからです。そして、詩編を味わいました。詩編は、魂のまことの蜜のような、天から下った書です。こうしてわたしは渇いた人のように詩編に飛び込み、休むことなくこの書を究めました。それは、活動的生活の苦味を十分に味わった後、この有益な甘さでわたしをいっぱいに満たすためでした」(PL 70, 10)。

 カッシオドルスはいいます。神を探求し、神を観想すること、これが修道生活の変わることのない目標です(PL 69, 1107参照)。しかし――とカッシオドルスは続けていいます――、神の恵みの助けによって(PL 69, 1131; 1142参照)、ギリシア人やローマ人がすでにもっていた学問の知見や、「世俗的な」文化的手段を用いて、みことばをよりよく味わうことができます(PL 69, 1140参照)。カッシオドルス自身も哲学・神学・聖書釈義の研究に努めました。この研究は特別に独創的なものではありませんでしたが、彼は他の人の役に立つと考えられる洞察に注意を向けました。カッシオドルスは何よりもヒエロニモ(Eusebius Hieronymus 347-419/420年)とアウグスチヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)を尊び、熱心に読みました。アウグスチヌスについてカッシオドルスはいいます。「アウグスチヌスのうちにはきわめて豊かな宝があります。それゆえ、わたしにはアウグスチヌスが十分に考察していないことを見いだすことができないように思われます」(PL 70, 10参照)。これに対してカッシオドルスはヒエロニモを引用しつつ、ウィウァリウムの修道士たちに勧告します。「勝利を得るのは、流血と戦ったり、処女性を生きる人だけではありません。神の助けによって肉体の悪徳に打ち勝ち、正しい信仰を守る人も勝利を得ます。しかし、つねに神の助けを得ながら、この世の要求と誘惑によりたやすく打ち勝ち、たえず旅する旅人として世にとどまることができるために、何よりもまず詩編第1編が示す手段を用いるよう努めなさい。詩編は昼も夜も主のおきてを思いめぐらすよう勧めているからです。実際、あなたがただキリストだけに注意を向けているなら、敵は攻撃するための突破口を見いだすことができないでしょう」(『(聖書ならびに世俗的諸学研究)綱要』:Institutiones divinarum et saecularium litterarum 32, PL 69, 1147)。これは、わたしたちにとっても有効な警告として受け入れることができるものです。実際、わたしたちは、文化が出会い、暴力が文化を破壊する恐れにさらされている時代に生きています。わたしたちは、偉大な価値を伝え、和解と平和の道を新しい世代に教えようと努めなければなりません。わたしたちは、神に向かうことによってこの道を見いだします。この神は人間の顔をもっておられるからです。この神は、キリストのうちにわたしたちに現された神だからです。

一般謁見演説より

次回は「ヌルシアのベネディクトス」を取り上げます。


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