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セルビアのイシドルス

ヨセフ・ラッツィンガー氏(名誉教皇ベネティクト16世)の一般謁見演説より、セルビアのイシドルスを取り上げます。

以下、引用となります。

イシドルスの著作は、マルティアリス(Marcus Valerius Martialis 40頃-104年頃)からアウグスチヌスに至るまで、また、キケロ(Marcus Tullius Cicero 前106-43年)から大グレゴリオに至るまでを、自在に引用するからです。イシドルスは兄レアンデルの後継者として599年にセビリャの司教座に着きました。若きイシドルスが味わわなければならなかった内面の戦いは小さなものではありませんでした。イシドルスは最後の古代キリスト教教父といわれます。わたしたちがこの偉大な著作家の著作を読むとき、極端に意志が重視される印象をもつのは、もしかするとこの絶えざる自己との戦いによるものかもしれません。

一般謁見演説より

イシドルスがはっきりとした二つの欲求の対立を生きた人であることは間違いありません。彼は個人としての生涯においても、絶えず内面的な葛藤を経験しました。それは、すでに大聖グレゴリオや聖アウグスチヌスが感じたのと同じものです。すなわち、孤独のうちに神のことばの瞑想にのみ努めたいという望みと、兄弟に愛のわざを行わなければならないことの間の葛藤です。イシドルスは司教として、これらの兄弟の救いに責任を負っていると感じたからです。たとえば彼は、教会について責任のある立場にある人について次のように述べます。「教会に責任を負う人(vir ecclesiasticus)は、肉に打ち勝つことによって世に対して自らを十字架につけなければなりません。また、それが神から出たものであれば、教会の叙階に関する決定を受け入れ、自分の望みでなくても、謙遜に統治に努めなければなりません」(『命題集』:Sententiarum liber III, 33, 1, PL 83, 705B)。それから彼はすぐ次の節で続いてこう述べます。「じつに神の人(sancti viri)は、この世のことがらに身をささげようと望みません。そして、神の不思議な計画によって、ある種の責務を負ったなら、苦しみます。・・・・神の人はこの責務を免れようとあらゆることをしますが、逃れようとしたことを受け入れ、免れようと望んだことを行います。実際、神の人は心の隠れたところに入り、そこで神の不思議なみ旨が求めることを悟ろうと努めます。そして、神の計画に従わなければならないと知ると、神の決定のくびきに心から従います」(『命題集』:Sententiarum liber III, 33, 3, PL 83, 705-706)。

一般謁見演説より

それゆえ後の時代の信者は、現代に至るまで、イシドルスの定義を感謝をもって用いることができました。そのはっきりとした例は、活動的生活と観想的生活の関係に関するイシドルスの教えに示されます。イシドルスはこう述べます。「観想の安らぎを得ることを求める人は、まず活動的生活の段階で自らを鍛えなければなりません。そこから、その人はつまらない罪から解放されて、清い心を示すことができるようになります。清い心だけが神を見ることを可能にするからです」(『事物の相違について』:De differentiis rerum II, 34, 133, PL 83, 91A)。けれどもイシドルスは、真の司牧者としての現実主義に基づいて、信者が一面的な人間となることの危険を確信していました。そのため彼は続けていいます。「普通は、二つの生活様式から成る中間の道が、対立を解決するのに役立ちます。この対立は、しばしば一種類の生活だけを選ぶと激しくなりますが、二つの生き方を代わる代わる行うことによって和らげられます」(同:ibid. II, 34, 134, PL 83, 91B)。
  イシドルスは生活の正しい方向づけに関する決定的な確証を、キリストの模範のうちに見いだして、こう述べます。「救い主イエスはわたしたちに活動的生活の模範を与えます。日中、町でしるしや奇跡を示すことに努めたからです。しかしイエスは観想的生活も示します。山に退いて一晩中祈られたからです」(同所:loc. cit.)。この神である師の模範に照らしながら、イシドルスは終わりに次のように正確な道徳的教えを述べることができました。「それゆえ、神のしもべは、キリストに倣いながら、活動的生活をないがしろにすることなく、観想に励まなければなりません。もしそうしないなら、正しい行いとはいえません。実際、観想によって神を愛さなければならないように、行いによって隣人を愛さなければなりません。ですから、両方の生き方を両立させずに生きることはできませんし、両方の生き方を経験せずに愛することもできません」(同:ibid. II, 34, 135, PL 83, 91C)。わたしは、これこそが、二つのものを一致させた生活だと思います。この生活は、神の観想を追求します。すなわち、祈りと聖書の読書による神との対話を追求します。また、人間社会と隣人に奉仕する活動も追求します。この一致こそ、セビリャの偉大な司教がわたしたち現代のキリスト信者に残した教訓です。

一般謁見演説より

次回は、最終回となります、証聖者マクシモスとなります。

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