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ヌルシアのベネディクトゥス

ヨセフ・ラッツィンガー氏(名誉教皇ベネディクト16世)による、バチカンにおける一般謁見演説より、今回は、ヌルシアのべネディクトゥスを紹介します。

ヌルシアの聖ベネディクトは、その生涯と著作によって、ヨーロッパ文明と文化の発展に根本的な影響を与えました。聖ベネディクトの生涯に関するもっとも重要な資料は大聖グレゴリオの『対話』第2巻です。この書物は古典的な意味での伝記ではありません。大聖グレゴリオは、当時の考え方に従って、一人の具体的な人間――すなわち聖ベネディクト――の模範を通じて、観想の頂に上ることについて明らかにしたいと望みました。この観想は、神に自分をゆだねた人が実行できるからです。こうして大聖グレゴリオは、完徳の頂点へと登った人生の模範をわたしたちに示します。大聖グレゴリオはこの『対話』の中で、聖人が行った多くの奇跡についても語ります。その場合も、グレゴリオは、どのような変わった出来事が起こったかを語ることだけを望みませんでした。むしろグレゴリオは、神が、警告し、助け、場合によって罰することを通じて、人間生活の具体的な状況にかかわることを示そうと望んだのです。グレゴリオは、神が世界の起源として遠く離れたところにおられるのではなく、人間の生活の中に、すなわち、すべての人の中におられることを明らかにしようとしたのです。

一般謁見演説より

実際、聖ベネディクトの著作、とくにその『戒律』(Regula)は、真の意味での霊的なパン種となりました。このパン種は、ベネディクトの祖国の境界と時代を超えて、数世紀にわたり、ヨーロッパの姿を変容させました。そして、ローマ帝国が作った政治的統一が崩壊した後、新たな霊的・文化的統一を生み出しました。この統一とは、ヨーロッパ大陸に住む人に共通の、キリスト教信仰による統一にほかなりません。こうしてわたしたちが「ヨーロッパ」と呼ぶものが生まれたのです。

一般謁見演説より

そこでベネディクトは、勉学を終えないうちにローマを離れ、ローマの東の山地で独り隠世生活を送りました。初め彼はエンフィデ(現在のアッフィレ)の村にとどまりました。このエンフィデで、彼は一時期、修道士たちの「修道共同体」に加わりました。しかしその後、彼はその近くのスビアコで隠修生活を送りました。ベネディクトは3年間、洞窟で完全な独居生活を行いました。この洞窟は中世盛期から、「サクロ・スペコ(聖なる洞窟)」と呼ばれ、ベネディクト修道院の「中心」となりました。スビアコの時期、すなわち神とともに独りで過ごした時期は、ベネディクトを成長させました。このスビアコで、ベネディクトはすべての人がもつ3つの根本的な誘惑を耐え忍び、乗り越えなければなりませんでした。それは、自分が認められることへの誘惑、すなわち、自分を中心に置きたいという願望。肉欲の誘惑。そして最後に、怒りと復讐への誘惑です。実際、ベネディクトは確信していました。これらの誘惑に打ち勝って初めて、自分は苦境にある他の人の役に立つことばを語ることができるのだと。こうして彼は、自分の魂と和解することによって、我を通そうとする欲求を完全に抑えることができるようになりました。そして、自分の中で平和をつくることができました。その後、初めてベネディクトは、スビアコの近くのアニオ谷に最初の修道院を創立することを決めました。

一般謁見演説より

隠れた形で行う修道生活にも存在意義はあります。しかし、修道院は、教会生活の中で、また社会生活の中で公的な目的ももっています。修道院は、信仰を生活の力として目に見える形で示さなければならないからです。実際、地上の生涯を終えた547年3月21日、ベネディクトは、その『戒律』と、彼が創立したベネディクト修道家族という遺産を残しました。この遺産は、世界中で、その後数世紀にわたって実りをもたらし、また、今なお実りをもたらし続けています。

一般謁見演説より

グレゴリオは『対話』第2巻の全体で、聖ベネディクトの生涯が祈りの雰囲気に満たされており、祈りは聖ベネディクトの生活の基盤だったことをわたしたちに示します。祈らなければ、神を体験することはできません。しかし、ベネディクトの霊性は、現実と無関係の内面的な霊性ではありませんでした。不安と混乱の時代の中で、ベネディクトは神のまなざしのもとに生きました。こうしてベネディクトは、日常生活の義務や、具体的な困難を背負った人間を見失うことがありませんでした。ベネディクトは、神を見ることによって、人間の現実と自分の使命を知りました。『戒律』の中でベネディクトはいいます。修道生活は「主に仕えるための学校」(『戒律』:Regula, Prologus, 45〔古田暁訳、『聖ベネディクトの戒律』すえもりブックス、2000年、13頁〕)です。またベネディクトは自分の修道士たちに命じます。「何事も『神のわざ』(すなわち、聖務日課ないし時課の典礼)に優先してはなりません」(同:ibid. 43, 3〔前掲古田暁訳、176頁。ただし表記を一部改めた〕)。けれどもベネディクトは強調します。祈りは何よりも聞くことです(同:ibid., Prologus, 9-11)。聞いたことを、後に具体的な行動に移さなければなりません。ベネディクトはいいます。「主は・・・・わたしたちが日々、実践によって聖なるみ教えにこたえることを期待しておられます」(同:ibid., Prologus, 35〔前掲古田暁訳、11頁。ただし一部表記を改めた〕)。こうして修道士の生活は、活動と観想の実り豊かな共存となります。それは、「すべてにおいて神に栄光が与えられるように」(同:ibid. 57, 9〔前掲古田暁訳、229頁〕)するためです。現代においては、安易な自己実現や自己中心的な思想がしばしばもてはやされます。それとは反対に、聖ベネディクトの弟子の第一のけっして放棄してはならない務めは、神を本心から求めることです(同:ibid. 58, 7)。そのために、謙遜で従順なキリストの後をたどらなければなりません(同:ibid. 5, 13)。また、キリストの愛にはどのようなことも優先させてはなりません(同:ibid. 4, 21; 72, 11)。こうして、他の人に仕えながら、奉仕と平和の人とならなければなりません。修道士は、愛に促された信仰に基づく行動によって従順を実践しながら(同:ibid. 5, 2)、謙遜を勝ち得ます(同:ibid. 5, 1)。『戒律』はこの謙遜に一つの章をあてています(同:ibid. 7)。こうして人はますますキリストに似せて形造られ、神の像と似姿として造られた真の自己を実現します。

一般謁見演説より

次回は「偽ディオニュシオス・アレオパギテス」からお送りします。

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