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証聖者マクシモス

ヨセフ・ラッツィンガー氏(名誉教皇ベネディクト16世)による一般謁見演説より、証聖者マクシモスをご紹介致します。

以下、引用となります。

今日わたしは後の時代の偉大な東方教父を紹介したいと思います。すなわち、修道士聖マクシモス(Maximos Homologetes; Maximus Confessor 580-662年)です。聖マクシモスはキリスト教の伝統でふさわしくも「証聖者」の称号を有します。それは彼が、苦難の中にあっても、恐れを知らない勇気をもって、イエス・キリストへの完全な信仰をあかしする――すなわち「告白する」――ことができたからです。イエス・キリストは真の神にして真の人であり、世の救い主であると。

一般謁見演説より

マクシモスはキリストの人性をおとしめることをけっして受け入れませんでした。キリストは単一の意志、すなわち神的意志しかもたなかったという説(キリスト単意説)が生まれていました。この説は、キリストの位格の単一性を擁護するために、キリストのうちに固有の人間的意志があることを否定したのです。一見すると、キリストのうちに唯一の意志しかないことは、よいことのように思われるかもしれません。しかし、聖マクシモスはすぐに、それでは救いの神秘が破壊されることになることを悟りました。なぜなら、意志をもたない人間性、すなわち意志のない人間は、真の人ではなく、不完全な人間だからです。それゆえイエス・キリストという人間は真の人でなく、人間としての苦しみを体験しなかったことになります。人間として存在するとは、まさに自分の意志を存在の真理に従わせることの困難さのうちにあるからです。こうして聖マクシモスははっきりとこう述べました。聖書がわたしたちに示すのは、意志をもたない不完全な人間ではなく、真の完全な人間です。神はイエス・キリストにおいて――いうまでもなく罪を除いて――真の意味で人間存在の全体を受け取りました。それゆえ人間的意志も受け取りました。そうであれば、問題は明らかです。キリストは人間か、人間でないかのいずれかです。人間ならば、意志もあります。しかし、ここで問題が生じます。それは一種の二元論に陥るのではないでしょうか。理性と意志と感情の上での完全な二重人格にならないでしょうか。この二元論をどうすれば乗り越えられるでしょうか。どうすれば、人間としての完全性を保ちながら、キリストの位格としての一致を維持できるでしょうか。キリストは統合失調症ではなかったからです。聖マクシモスは次のように論証しました。人間は一致した自分、すなわち、統合された自己、全体としての自己を、自分自身のうちにではなく、自分を超越し、自分自身から抜け出ることのうちに見いだします。それと同じように、人間としてのキリストも、ご自分から抜け出ることによって、神のうちに、すなわち神の子のうちに、ご自身を見いだします。受肉の意味を説明するために、人間を不完全なものとしてはなりません。そのためには、自分自身を抜け出ることによって自らを実現する人間の構造を悟るしかありません。わたしたちは神のうちにのみ、自分自身を、すなわち、全体としての完全な自分を見いだします。ですから、おわかりのように、自分のうちに閉じこもる人が完全な人間ではありません。自分の心を開き、自分自身から抜け出る人が、完全な人間となります。そのような人こそが、神の子のうちに自己を、すなわち自らの真の人間性を見いだすのです。聖マクシモスにとってこのような考えは哲学的思弁にとどまりませんでした。聖マクシモスはそれがイエスの具体的な生涯のうちに、とくにゲツセマネの苦しみのうちに実現されたと考えました。イエスの苦しみ、死への不安、死を望まない人間的意志と、自らを死へとささげる神的意志の対立――このゲツセマネの苦しみのうちに、人間の苦しみの全体が、すなわちわたしたちのあがないのための苦しみが成し遂げられました。

一般謁見演説より

聖マクシモスはわたしたちにいいます。そして、わたしたちはそれが真実であることを知っています。アダム(アダムはわたしたち自身のことです)は「否」が自由の頂点だと考えました。「否」ということができる者だけが真に自由だ。自分の自由を真の意味で実現するために、人は神に「否」といわなければならない。こうして初めてついに自分自身になれる、自由の頂点に達することができるとアダムは考えました。キリストの人間的本性も、このような傾向を自らのうちにもっていました。しかし、キリストはこの傾向に打ち勝ちました。なぜなら、イエスは「否」が最大の自由なのではないと考えたからです。最大の自由とは、「はい」ということです。神の意志に従うことです。人は「はい」ということによって、初めて真の意味で自分自身になります。「はい」といって自分の心を大きく開くことによって、すなわち、自分の意志を神の意志と一致させることによって、初めて人は限りなく開かれたもの、すなわち「神的」なものとなるのです。

一般謁見演説より

マクシモスは繰り返し、こういい続けました。「キリストのうちに単一の意志があるということは不可能です」(PG 91, 268-269参照)。そこで、ともにアナスタシオス(Anastasios)という名の二人の弟子とともに、マクシモスは、すでに80歳を超えていたにもかかわらず、激しい拷問を受けました。皇帝の裁判所は、マクシモスに異端の罪を宣告し、残酷にも舌と右手を切り落としました。マクシモスはこの二つの器官によって、ことばと著作を通じ、キリスト単意説の誤謬と戦ったからです。最後に、舌と右手を切り落とされたこの聖なる修道士は、黒海のコルキスに流刑となり、そこで、短期間の苦しみで疲れ果てた末に、82歳で没します。662年8月13日のことでした。

一般謁見演説より

聖マクシモスの思想は、自分の中に閉じこもった、たんなる神学的・思弁的思想ではありませんでした。なぜなら、マクシモスは常に、世と世の救いに関する具体的な現実を用いて考察を行ったからです。マクシモスは、自分が苦しまなければならなかったこのような状況の中で、たんなる理論的・哲学的な言明のうちに逃げ込むことができませんでした。マクシモスは生きることの意味を探求せずにはいられませんでした。そのためにマクシモスはこう問いかけました。「自分はいかなる者か。世界とは何か」。神は、ご自分の像と似姿として創造した人間に、秩序ある宇宙を一致させるという使命をゆだねました。キリストが人間をご自身と一致させたように、造り主である神は宇宙を人間と一致させました。造り主である神は、キリストとの交わりのうちに宇宙を一つにし、そこから、世のあがないに至ることをわたしたちに示してくださいました。

一般謁見演説より

マクシモスの生涯と思想は、キリストの完全なあり方を、縮小することも妥協することもなしに、大きな勇気をもってあかししたことのうちに、力強く輝き続けます。こうして彼は、真の意味で人間であるとはどういうことかを、そして、わたしたちは自分の召命にこたえて生きなければならないということを示しました。わたしたちは神と一致して生きなければなりません。それは、自分と、また宇宙と一致することができるためです。そのためにわたしたちは、宇宙そのものと人類に正しい形を示します。すべてにおいて「はい」といわれたイエスは、他のすべての価値に正しい位置づけを与えることをも、わたしたちにはっきりと示します。たとえば、現代において、寛容、自由、対話といった価値が擁護されるのは正当なことです。しかし、寛容が、善と悪を区別することができなければ、それは混乱し、自己破壊的なものとなります。さらに、自由が、他者の自由を尊重せず、互いの自由の共通の基準を見いだすことができなければ、それは無秩序で、権威を破壊するものとなります。対話が、何について対話するのかわからなければ、それは空しいおしゃべりになります。これらの価値は皆、偉大で基本的なものです。しかしそれらの価値は、それらを一つにまとめ、本当の意味で真正なものとする基準をもつときにのみ、真の価値であり続けることができます。この基準は、神と宇宙を一つにまとめるキリストです。

一般謁見演説より

今回をもちまして、長く引き続いてきた「note」の「マガジン」、その一つが幕を閉じます。

こちら、ヨセフ・ラッツィンガー氏が、教皇ベネディクト16世という立場から語った「教父」に、ご興味のある方は、書籍にものなっておりますので、そちらから、詳細は、ご確認くださいませ。以下が、その1冊となります。

以上、これまで、ご一読の労を賜りまして、誠にありがとうございました。

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