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たとえば 僕がまちがっていても 正直だった悲しさがあるから

ここまでnoteを始めて、自己紹介、家族、出会った人たち、それらについて書いてみて自分の選択は間違ってなかったんだと納得する一方で、これでよかったのかなと思うことは結構ある。結局そんなもんだ。
そんな時に聴くのが吉田拓郎の一曲。

「たとえば 僕がまちがっていても 正直だった悲しさがあるから」

記事のタイトルにもあるこの一節を聴いたとき これは自分のことだ と感じる人も多いんじゃないかと思う(噂では爆笑問題の太田光がそう言ったとか言わないとか)。
確かに自分は間違ったのかもしれない、しかし自分は正直だった、じゃあそれは正解じゃないのか、やはり間違いは間違いなんだ。そんな負の連鎖に飲み込まれてしまう時があるのではないだろうか。

正直さとはなんだろうか。僕は就活中のNHKの最終面接で

「好きな番組は何ですか?」

と面接官から聞かれたときに他局の番組を答えたことがある、そして落ちた。確かにその時に好きな番組はそれだったんだろうが最終面接で正直にそんなことを言うやつがいるか、本当に馬鹿だったと思う。これはただの馬鹿正直だ。僕が今振り返りたいのはそこではなくて、

「おはよう日本です!」

と答えなかったこと。僕は朝のニュース番組、おはよう日本が大好きだった。しかしそれは出演している鈴木奈穂子アナウンサーのファンだというだけだったから当時の僕はそんな理由ではダメだと一次面接から話題に出すことを避けていた。正直に答えるのが怖かった。しかし正直にそう言ってしまった方がよかったと今思う。鈴木アナが好き、それは絶対的な理由であったから自分の人間性や熱量が絶対に伝わっただろうし、何より後悔が残らなかったと思う。正直に伝えて、結果落ちる=間違ったとしても悲しさは残るが自分に正直になった分、後悔は残らない。正直さとは後悔の反対にあるもので、だから間違ったとしても自分に正直だったのなら恥じる必要は全くないのだと思う。

一方で自分に正直になったことで他人を傷つけてしまうことはあるだろう。しかし、この複雑な世の中には たしかなことなど何もない。人間なんてそんなできたもんじゃないのだから、まずは自分を優先すればいい。自分に正直になることだって十分に難しいのだから自分に正直になった自分をほめてやる。

直近で言えば僕は自分の選択でベトナムに来た。でもまだ何も成し遂げられてない今、これでよかったのかなと思ってしまうのは正直なところ。
20代という貴重な時間は戻ってこないけれどその時間を今ここで過ごしていいのか、こうしていた方がよかったのではないか、そう思ってしまったりして。
でも結局悶々とする漠然とした不安はいつでもつきものなのだから、その不安をなるべく感じないように工夫しながら生きるしかない。幸福だとは言わないが不幸でもない、幸福だったのか不幸だったのか決めるのは次のステージの自分。訪ねさまよいながら環境という風に乗ろうとすることに今は執着し、後になってあの時の自分を眺めてみる。だから今できることは

「自分は何がしたかったんだっけ。」

そうやって自問自答して自分の根底にある理由を探すこと。そうやって自分に正直になって後の自分の後悔を減らしてあげることだけだ。

「流星」のように今を流れて行く。しかし、

僕の欲しかったものは何ですか。

そんなことを考えながら自分に正直に生きていこうと思う夜でした。

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