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膳所五社

 膳所(ぜぜ)五社とは、旧膳所藩の五ヶ村の氏神。

 別保村の若宮八幡神社、中ノ庄村の篠津神社、膳所村の膳所神社、木ノ下村の和田神社、西ノ庄村の石坐(いわい)神社の五社。

 今日は、旧東海道に沿って点在するこの5社を歩いてみようと思います。

 京阪瓦ヶ浜駅からスタートして、若宮八幡神社へ。

杉浦貞剛先生誕生地

 瓦ヶ浜駅から南に下ると「伊庭貞剛先生誕生地」と刻まれた石碑がある。

「伊庭貞剛(いばていごう)」は、明治時代の実業家で、第二代住友総理事。「別子銅山中興の祖」である。

若宮八幡神社

 瓦ヶ浜駅から歩いてほんの5分ほどで若宮八幡神社に到着。住宅密集地であるが、この敷地は広い。

若宮八幡宮鳥居

御祭神:仁徳天皇 
配祭神:応神天皇、武内宿禰

社伝によると、白鳳四年、天武天皇が宇佐八幡の御神託により、この粟津に行幸になったところ、紫の雲がたち、金色の鳩が飛来して、粟津の森の大木に止った。
その処に当社の造営を勅諚され、仁徳天皇の御木像を御下賜になった。
次いでこの浦(湖辺)上下八町の間、殺生を禁じられた。漁夫等は、これを恐れて特別の浦、別浦と云い、後に別保と呼び、現在も地名として残っている。
翌年、当社に於て「放生会」が行なわれ以来毎年斎行されている。当社の竣工は、勅諚から四年後の白鳳八年で、九州の宇美八幡、宇佐八幡に次ぐ古い八幡宮であり、当初は粟津の森八幡宮、後に若宮八幡宮、更に後に、若宮八幡神社となった。
当社は、延喜十七年、落雷のため全焼、更に寿永三年、木曽義仲の粟津の合戦で全焼したが、建仁二年、源頼朝が上洛の時、当社を再興し、翌年社殿を再建した。
又当社を、歴代の膳所城主が崇敬し、社領寄進の記録がある。
千三百年の間、毎年行なわれて来た、放生会祭には、近年では、琵琶湖に蜆流しと、人形流しの厄除祭を斎行している。
当社には、現在も宮座が残っており、毎年元旦、例祭、放生会祭、の当日四季の花をさしそえた、御供を、本殿をはじめ、境内の皇大神宮他摂社、末社にお供えしている。
明治十四年村社に、昭和五年郷社に加列。

滋賀県神社庁

すぐ隣にやや小さめの鳥居があり、「新羅神社」とある。

新羅神社が若宮八幡神社の西隣に並ぶ

境内社として、皇大神宮、金比羅社、新羅社、天満宮社、多賀社、白山社、稲荷社(境外)、八坂神社がある。

若宮八幡神社の祭神は、仁徳天皇。拝殿の奥に本殿がある。
屋根には鳩が飾られ、本多家の家紋「本多立ち葵」。
毎年5月3日は「五社まつり」がおこなわれている
みこしの担ぎ手も募集中

篠津神社


 次は、旧東海道を少し北上して左手にある「篠津神社」。

 御祭神は、素戔嗚尊

古くは大梵天王と号し天王社と称されていたが、のち天王宮さらに牛頭天王社と改称された。膳所中庄の産土神である。創祀年代は不詳であるが、康正二年の棟札が現存しているところからみても、室町時代にはすでに鎮座されていたと考えられる。また大津円満院門跡常尊法親王や覚淳法親王、有栖川家の崇敬厚く、鳥居額等種々寄進され、社参の記録もある。さらに膳所城主や戸田、菅沼、石川諸氏ならびに本多家の崇敬が長く続き、社領二十二石の他、社殿の修復も本多家でしばしば行なわれた。現在の本殿は膳所城主本多俊次公の万治四年に造営されたものである。
明治元年十月には篠津神社と改名せられ、大正一年十月には村社より県社に昇格せられた。現在重文指定の表門は旧膳所城北大手門である。尚神輿の金具は膳所の名工奥村菅次の作である。

滋賀県神社庁

境内社:少彦名社 、高龗(たかおかみ)社、 六柱神社(稲荷大明神外五柱)、 六柱神社(菊理姫命外五社)

この表門は膳所城北大手門
内側から見た写真
拝殿の奥に本殿がある造りになっている

篠津神社をあとにして、旧東海道をさらに北上していく。

城下町だけあってこんなクランクが多く、見通しが悪い

次は膳所城から西の位置にある「膳所神社」。


膳所神社

この表門は、膳所城の二の丸と本丸の間にあった城門
手前に拝殿があり、その奥に本殿がある
本殿

 社伝によると、天智天皇が大津宮遷都に際し、此の地を御厨地と定められた。天武天皇六年に大和国より御食津神を奉遷して、大膳職の御厨神とした。 慶長年間に至り大政所豊臣秀頼、徳川家康等、当社を厚く尊信し、種々の神器の寄進があった。東山天皇は膳所大明神の宣下をされた。 尚慶長六年膳所城創始以来、藩主本多候は歴代崇敬が厚く、社領、社殿の寄進、造営が度々あった。現在当社表門は元膳所城の城門であり、重文指定である。

滋賀県神社庁

御祭神:豊受比売命

境内社(摂社、末社):愛宕神社、松尾神社、稲荷神社

 確かな資料は、平安時代、この一帯が天皇の食事としての湖の魚介類を献上する場所に指定されたことによると言われている。

膳所神社から旧東海道に戻ってさらに北上すると和田神社がある。


和田神社


和田神社鳥居

社伝によると、白鳳四年創祀とされているが、中古社記散逸したため詳でない。持統帝の朱鳥元年頃から元天皇社あるいは八大龍王社と呼ばれ、仁明帝の承和二年から正霊天王社とも称されていた。明治維新の際膳所藩主の令達によって和田神社と改称された。琵琶湖の此の地先が和田浜と有り其の地名をとったものと思われる。現在の本殿は鎌倉時代の建築様式を代表するもので、特に蛙又の彫刻は有名である。明治三十五年国宝の指定をうけ、昭和二十五年重要文化財に指定せられた。

滋賀県神社庁

御祭神:高龗神(たかおかみのかみ)
境内社:稲荷社、天満宮、山神社

拝殿と大イチョウ

 拝殿横にある大イチョウは、周囲4.4m、高さ24m。樹齢はおよそ600年。関ヶ原の合戦に敗北して捉えられた石田三成が京都へ護送される途中、この木に繋がれて休息をとったと伝わっています。

本殿:正面に軒唐破風をつけた檜皮葺の一間社流造。側面のかえる股。

和田神社を出て、旧東海道は再びクランクして北西へと進みます。


クランクのところにある屋敷門は、膳所藩家老・村松八郎右衛門屋敷跡に再建された響忍寺がある。

 最後は、石坐(いわい)神社。


石坐(いわい)神社


石坐(いわい)神社鳥居

御祭神八大龍王宮 「豊玉比古神(海津見神)」、「彦坐王命(開化天皇第3皇子)」
    正霊天王宮 「天智天皇」、「大友皇子」、「伊賀宅子媛命(大友皇子母)」

創祀年代不詳であるが、社伝、社家古伝によると、当社の創始は、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連がその四代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を、神体山として祀ったのに始まると考えられる。彦坐王の御事蹟は明白ではないが、治田連とその一族は、湖南地域一帯の水利治水、農・漁業の開発・発展に大きな成果をあげたため、これを尊崇した地域住民がその一族の祖・彦坐王を開発の先達として崇拝するに至ったものと考えられる。
下って天智天皇の八年に旱魃があり、その時毎夜湖水から御霊殿山に竜燈が飛んでいった。里人の奏聞により派遣された勅使の前で、竜燈は小童の形に変じ、「われは海津見神の幸魂である。旱害を除いてやろう」との御託宣があった。天皇は叡感ななめならず、勅して御霊殿山上に海津見神を斎祀した。毎年九月九日に祭典を行い、旱天の時は炬火を点じて登山し雨乞いをしたが、いつも霊験があったという。前述の幸魂は、彦坐王の霊ともいわれる。
壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の「天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛」を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建てて御霊殿山の霊祠を遷すと共に相殿を造って近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大龍王宮と称え、石坐神社とも称した。
光仁天皇の宝亀四年、石坐神社に正一位勲一等を授けられ、「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜っている。ここにはじめて、近江朝の三神霊が公に石坐神社の御祭神として認められたのである。

滋賀県神社庁
拝殿の奥に本殿がある
境内のエノキは立派な大木

 さて、これで5社を巡りましたが、最後に石坐神社から少し南に行ったところにある地蔵堂をご紹介。

北向地蔵さん

 「北向地蔵尊」と言って、お参りに来られる人が途切れることなく訪れます。とても大切にされているお地蔵様。



 たくさん歩いたような気分ですが、歩数を確認すると5,000歩ほど。アップダウンもありませんし、お手軽なお散歩コース。

 膳所神社の近くの「松田常盤堂」さんの和菓子を買ったので、

 帰宅後にいただきました。

 いちご大福餅と栗大福餅。美味しかったです。


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