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没頭

たびたび語っている虚無感について、打開案はないかとしばらく考えていた。ひとつの到達点に辿り着いたので残しておこうと思う。

答えから言うと、没頭する力があるかないか。
集中力とは少しニュアンスが異なっていて、その場に集中が出来るか。言い方を変えれば、盲目的になれるか、精神をそれだけに100%向けられるか、無我の境地にいちはやく立てるかといったところか。マルチタスクができてしまう器用貧乏な人間や、或いは現状に飽きがある人間が陥りやすいのかなと思う。集中力というと物事に対して取り組む姿勢の意味合いが強いが、もっと広義に捉えて、湧き上がった感情そのままに自身の精神をその一色に染まれる力のことに重きを置いて没頭する力の定義にしたい。
ビジネス術などでも話題に上がるマインドフルネスをご存知であるなら、それが結局は答えだったわ!というお話に落ち着くことを先に明記しておく。

以前語ったように自分は、自分自身が一度意識したものや一度思考したことのすべてにおいて、自分の頭から自分の体外に放出するまでの間に「これでいいのか」という検問所が存在している。たとえば飲み物を飲む行為ひとつにとってみても、コップまで手を伸ばす→コップに触れる「冷たい/硬い/重さがある」→口まで運ぶ「味や香り/同じものであればささいな違いがないだろうか」→飲み物が食道を通って胃袋の方向に流れる「温度を感じる」、など。極端に見えるかもしれないくらい具体的に書いてはみたが、それほど誇張したつもりもないということは断言しておきたい。動作のひとつひとつを細かくすればするほどにそのものへの意識は鮮明になっていってしまうことがある。本当に不思議なほど、馬鹿がつくくらい理性的でいてしまうのである。
自分が自分自身の監視下にあって、圧倒的な支配力で自分という人形を操縦する自分自身がいて、こいつが本当に厄介者。たとえば、怒り狂う人間に対応しながら「一生懸命になれて羨ましいな」という感情を持つことがある。決して馬鹿にしているとかそういう話ではなく、感情に支配されることができて、自分自身を見失えるほど夢中になれて羨ましいなと本気で思う。この態度がどこか出てしまっていて、なめてんのかと言われたこともしばしば。しかもこれに対して、なめてんのかと言えるほど怒り狂えて羨ましい...になるのでもうそもそも相手にならないというか、まぁそうだわなーというところでひとり勝手に落ち着くのだが...。

この没頭する力の持ち方は段階的に三種類ある。
まず、没頭する力も没頭していることすらも気付いていない段階。無自覚的に没頭出来る状態の人間のこと。良い大人と接していて個人的に悩まされている相手はだいたいこの層にいる場合が多くて、自我をルールとしていることに気付けない人間である場合が多い。それから小さな子供や動物など。いわゆる「無邪気さ」と形容されるものが夢中になっていることを指して言いたい。きっと喉を潤すにも、ただひたすらにジュースをがぶ飲みして「うまい」の一言に終わるだろう。
つぎに、没頭できないと悩んでいる段階。ニヒリズムに陥っている人間を言いたい。ただただ虚無感に押しつぶされそうになっている状態の人間も、どうしたら打開できるだろうかと悩む人間も、全部いっしょくたに同じ層にいるとしていいだろう。
そして現時点で見えたさらに上層は、没頭する力を持つ人間。結局は、瞑想やマインドフルネスに落ち着くのかといったところか。ただこの答えに行き着くまでに中層のニヒリズムのプロセスを踏まなかった場合は、そもそもニヒリズムにならないで集中できているのなら集中する為に集中する必要もないのではないか、とも思う。

しばらく勉強していたMBTI性格診断にも個人的にはある程度落とし込めていて、Sタイプ(Sensing=感覚)か、Nタイプ(Intuition=直感)かが指標になると思っている。S持ちは比較することなく現在に注目するので無自覚的に没頭するタイプであると言える。N持ちは過去や未来への直感を比較対象として現在に落とし込むので没頭はしにくい(理想とのギャップに闇落ちして自堕落や自己嫌悪に没頭する場合はここでは例外としたい)。かんたんに性格診断出来るので気になる方はやってみてね。

最近の口癖というか、口には出していないが頭の中の口癖(なんだそりゃ)になっているのは「人生ひまつぶし」、「全部どうでもいい」、「虚無を意識しないように没頭したい」は全部この没頭する力に集約されている。投げやりという意味ではなくて、なるようにしかならないといった諦めに似た感情(≒自然の摂理や無常さ→虚無的な感覚)に近いが、あんまり言うと、無自覚的に没頭出来る人間から「最初から自分一人で勝手に決めるな」という批判が飛んでくるので控えておきたい。僕がこれを意識して行動した場合は、解る人間が直感でわかるから、解ってもらえるひとにだけわからないことを明示したり、相談をするという行動につながっている。差別とかではなく、小学生に高校生の問題を解かせることは大前提としての知識が無さすぎてあまりに難題だよなといった「諦めに似た感情」だと説明しておきたい。何事にも段階があるので、悪気からくる行動では決してない。

自分が意図的に没頭出来る場面があって、それはランニングで限界ラインを攻めてるとき。三島由紀夫的で笑ってしまう。ストイックさと形容されがちだが、深層心理的には、ニヒってるな!の警告から自罰的にしているようにも思う。妬みや褒めてもらいたいみたいな空気感を出しているように捉えられてしまうのもなかなか耐え難いものがある。死ぬほど飲酒して自分を見失ってみてもただツラいだけである。
しかし前回のnoteでも書いたが、何年かぶりに無自覚的に没頭してライブで涙を流せたことは生きていてよかったなと本当に思えた出来事だったと何度も思う。それほどまで奇跡に近い体験だった。そうして何かに没頭しているときこそが、虚無を意識することすらを忘れられる唯一のひとときであろう。

いざ大人と呼ばれる年齢になってみても未だに周囲の人間たちは子供遊びの延長線とも言えるような、正義の鉄槌に持ち替えただけのちゃんばらごっこに夢中になって遊んでいる。幼い頃に感じた大人への違和感もずっと変わらないまま。果たして、違和感を覚えたあのときから自分は大人になれているんだろうか。ただただ呼吸をしているだけで新鮮さに溢れ目を輝かせるような子供遊びのやりかたを忘れてしまった。気づきの連続にワクワクするだけの無邪気さもなくなってしまった。自分の目指している大人は一体どこにいて、一体どんな姿をしているんだろうか。あの子の目に映る世界はどれほど輝いて見えるのだろうか。


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