不平等性について

結局は、自分の認識している現実世界と、所謂世間の目と言われる視点にある現実世界との乖離に悩んでいると言っていいだろう。いつまでも大人になりきれないのである。幼児がお菓子コーナーの前でいつも駄々をこねている。
基本的に他人の身に起こったことに対して一喜一憂することは無い。しばしば冷たい人間だと思われる場合がある。普通に過ごしているだけで相手の気持ちが伝わってきてしまうために、いやもしかすると一部だけを見て拡大妄想しているだけかもしれないが、しかしそんなものにいちいち反応していたら自分の身が保たないからである。自己防衛のひとつの方法だと言っておきたい。
こんな性格であるにも関わらず、他人の痛みであるのにひどく落ち込むどうしても許せないことが起きた。具体的な話は出来ないが、そう思うこと自体がまだ大人になりきれない自分の弱い部分だと感じたので残しておきたい。
結局のところ「わがままなほど得をする社会の常識」が許せないのである。
よくある話が、不良少年が更生して社会貢献をする事例があげられる。一般生徒より更生を経験した不良少年のほうがより頑張ったとされる風潮がどうしても飲み込めないでいる。
もっと言えば、さらによくやった模範生はどうなるの?という部分にはいつまで経っても納得できる解答を見つけられていない。不良少年が更生しようと、不良少年が不良時代でいた頃に”生徒”として果たされなかったタスクは他の一般生徒にシワ寄せとして処理される必要があるものもあるだろう。集団にいれば肥溜め役となる人間も当然のように出てくる(これにも納得がいかないが長くなりそうなので今回は触れないでおきたい)。
それで、シワ寄せや肥溜め役の人間に課された不良少年のタスクを、不良少年以外の人間がこなしてみて実際に報われている場面は見たことがない。なぜなら、模範生だから当たり前でしょといった風潮がここにもあるからである。模範生がどう思っていようがやろうとしない人間のタスクは出来る模範生に押し付けて出来て当たり前、なんて構図をどうしても飲み込めないでいる。
もしかするとこれは自分の偏った経験によるものかもしれないが、この環境の"先生"にあたる人間に限って『ひととひとは助け合って生きています』なんて綺麗事で済まそうとする。「だってそうだろう、君にも出来ないものは誰かにやってもらっているはずだ」。やろうともしていない人間と、実際現実的にすることが出来ない人間を同じ天秤にかけるような間違った比較が実際にまかり通ってしまうのである。
私の中では優生思想とかなり近いところを感じていて、決して肯定はしないし危険な思想だなとはもちろん思うが、すべてを否定も出来ないと思っている。教育の場面において(教育の思想については以前語っていてあれからも思うことは変わっていない『屍の再発明』)、教育者が生徒を自分の目線にまで引っ張り上げようとする。たまたま生徒の腕がもろくて千切れた場合、果たしてどっちが悪い?腕を引っ張るちからが強い(パワハラ)場合はもちろん教育者に責任が問われる。生徒が自分の身体のもろい部分を教育者に伝えなかった(持病や性格質なんかがそう)場合、教育者は事前に把握するプロセスを踏む必要があるがここではどちらとも言えないだろう。
自然界において、生き残る上で不利な種は自然に淘汰されて生き残ったものが現存している。組織に属していれば、自然と統一されていく手順、陰に目を当てて悪い方法が自然と消えていく様とよく似ているように思う。しかし、これを人間界に転換すると「非人道的」や「倫理観が疑われる」ことが多い。実際にナチスドイツの過去なんかも人間の黒歴史として語り継がれているように、優生思想を擁護はしない。優生思想に基づいて劣等組を淘汰させようとする動きは、切り詰めていけばいつかきっと自分が劣等組に属した瞬間に排除され助けてもらえなくなるラインが出てくるので、最初に言ったとおり決して肯定は出来るものではないと思う。
まるで不良少年のような組織に対して明らかに害を及ぼす人間が現れたとする。そして組織において頑張ろうともしない、頑張れない人間が蔓延ってしまったとき組織が腐ることを先見、懸念している人間が現れたとする。いつだって人間は堕落する方向に向かう。個人が集団よりも強い理由だとも言える。話を戻して、それで本人の主観だけで「頑張った」なんて言えるのはすごく不平等だと思える。ならば組織のなかで「頑張った」と言えるラインを決めるのがより、"模範生"が正しく評価される方法ではないだろうか。不良生徒が許されたら、規則やルールによって縛られた生徒が「僕らが頑張ったことは無駄になってしまうよね」と怒りたくもなるだろう。たまたま生徒の腕が千切れた場面に出会い、教育者が追放され、不良が生き残った場面を見てしまったのでいてもたってもいられなかった。
もっと言うと、「自分のタスクは自分で処理すればいいんでしょ」という意見があるかもしれないが、試験と同じように制限時間がある。制限時間を越して鉛筆を持つ手を動かし全問解いたからと言っても社会は残った時間に対価を与えなければならない。時間内に終わらせた者よりも、時間をかけたほうが「より評価が高い」とされるのもよくわからない(ある程度は仕方ないとは思うが、社会には意図的に良い評価をもらおうとする人間がいて驚いている)。本来なら失格とされる試験が頑張ったものとして評価されるのである。模範生は頑張るだけバカをみる、ならこれを仕切るのが管理者だろうと思うわけで。事実手が回らないのも理解は出来るが、ならばもっと小さい組織リーダーの仕事だろうと思う。どうしてこうも上手く回らないのか、無法地帯ではいくら模範生でいようと、不良のほうが正しいとされる。非常に許せない。

たとえば、模範生が妥協点を既にクリアし、これ以上タスクを処理しても評価されない領域で努力をしていたと気付いたらぜひその場で「ありがとう」の一言だけでもかけてやって欲しい。もしかするとそれは、不良少年のシワ寄せかもしれないし、そうでなくとも少なからず組織に対しては貢献しているからである。いつでも大人は子どものわがままに付き合ってやらなければならないのだ。「いつまで馬鹿真面目でいるんだ?」と言われているような、わがままを言ったもの勝ちのような不平等さが当たり前に蔓延る社会の常識には、常に、心底腹を立てている。


屍の再発明

僕は、大人になれない/備忘録

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