60~70年代の娯楽小説、映画、ドラマが今、観れたものじゃない理由について

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、ある人気小説家の方のポストから。

今観ると、60~70年代の小説は読めたものじゃない。会社中心主義だったり女性差別的だったり。弱者蔑視だったり。
あるいは、推理モノなどで、組織に属していないいわゆる一匹狼、私立探偵や業界紙関係者はゴミのように殺される。
なぜか? 読者たるサラリーマンにとって、組織に所属してない彼らがゴミだからだ、と、その方は喝破しておられます。

このポストの全てが事実かどうかはともかく(子連れ狼とか、平井和正のウルフガイシリーズとか、一匹狼の主人公が人気であった作品もある、という反証もいくらかあげられます。ただ、事実の一面をついていることは間違いないでしょう)、その当時の時代背景がその当時人気だった作品群と密接に関わって「いない」ということは絶対にないでしょう。

会社中心主義という話で私自身が思い出すのは、私自身が学生だった時分、「なぜか笑介」という作品の一巻を読み。
例えば、彼の上司が、常に弁当を持ってくる窓際部下を指して、
「男の職場は戦場だ。昼休憩に何が起こるかもわからない。それなのに(必ずその時間休憩できるということを見越して)弁当をもってくるような奴は戦場に生きる資格がない(うろ覚え)」
と言い放つ。とか。
例えば、定年退職を迎えた二人のサラリーマンを対比させ、一人は仕事に打ち込み、何者も顧みずな生活を送った人間。一人は趣味に生き、多くの「生きがい」を見つけてきた人間。そんな二人を登場させ、そのうちの生きがいを見つけてきた方の人間に、
「こんな人生を送ってきた俺は馬鹿だった。男は仕事に生きるものだ。その、人生においてもっとも意味がある仕事に全力で打ち込まず、趣味などに逃げた生き方は間違っていた(うろ覚え)」
と鳴きながら(意図的な誤字)主人公に訴える。とか。

このあまりの薄汚い従属型奴隷根性に吐き気がし、以後なぜか笑介を読み返すことはありませんでした。あの不快感を、同じような一匹狼として荒波をかいくぐってきた、上記ポストをした某作家先生もまた、当時人気だったそういう作品群にたいして苦々しく感じ取っていたのではないかなぁ、なんて思います。

私個人としても、この作家先生のポストには全面的に賛意を示したいし、あるいはここ最近ずっと唱えてきた
「(A)という現実に理想の側から変化を望み、社会は少しずつ変わってきた」
話にも通ずることから、そういう直近の時代・ちょっと前の時代の物語こそが、そこをかいくぐって新しい社会を体現してきた人間にとって一番醜悪に映る、という「あるある」を差し引いても、あの時代の「そういう」作品群は異常だったなぁと思いますし(その中で、島耕作が未だに人気があり読まれているのは白眉でありますし、弘兼憲史先生のバランス感覚のなせるわざなのかなぁとも思います)、その「異常さ」そのものについて突っ込んで話したい気持ちも多分にあります。

ですが今回はあえてそこについては割愛し、その理由。なぜあの時代、ああいう作品が求められていたのか、という、原因についてあれこれ思いを巡らしてみたいと思います。

時代というのは繰り返すものです。60年代から70年代にかけてのサラリーマンは「モーレツ社員」と呼ばれていました。
このような「モーレツ社員『モドキ』」は、時代下って2010年を前後してもう一度現れます。
両者が決定的に違うのは、前者は「好きでそうしている」のに対し、後者は「会社に無理矢理そうやらされてる」、という点にあります。
残業代が満額でたりでなかったり。会社組織が所属する社員を積極的に助けたり助けなかったり。会社が一種の「家族」として、血のつながりのような結びつきを持っていたり持っていなかったり。
前者の時代と後者の時代は、会社と社員の間に流れる関係があまりにも隔絶しています。
日本の会社組織をそういう「会社」にした犯人は、「時代」という魔物ですし、誰も好き好まず望みもしなかったのに日本人の奴隷根性をズタズタに引き裂き、個人主義の冷たい棺に突っ込んだのは不況という地獄のなせる技です。

私は、基本的に、人間にかかわる組織なり時代なり空気なり、環境なり。あるいはその考え方の傾向とか、もっと突っ込んで「常識」とか。「哲学」とか(フィロソフィーの方ではなく、小宮山投手の投球哲学の方の哲学です)。
こういったものの全ての傾向は、「経済」で語れると信じているタイプの人間でして、しかもひろゆきや成田悠輔先生ばりに、口に出すことそれ自体でいとも簡単に人を不快にさせるような内容になってしまいます。

そんなもの書くなよ、という話なのですが、書きます。
すみません。

ものすごく簡単にまず、結論から先に言うと。
「60~70年代の小説は読めたものじゃない。会社中心主義だったり女性差別的だったり。弱者蔑視だったり」
した、その一番の主因は、
「日本が高度経済成長下にあったから」
です。

まず前提として、日本が高度経済成長下に居られた理由は、戦後復興から立ち上がりはじめ、土地需要とヒトの需要が天井知らずで、開発すべき箇所は山のようにあり、汚染されやすい重化学工業の仕事を世界から一手に引き受けて「モノづくり」を牽引してきたからです。
高度経済成長下に男性による女性蔑視が強かった理由は、その直前の50年代に馬車馬的現場の働き手となる成人男性が戦争によって著しく少なくなっており、男性の頭数が足らず、「男性の需要」が、結婚相手としても働き手としても、異様に高かったからです。
いわば、供給不足による価格高騰に等しい。「男性バブル」が起きていたわけです。
この男性バブルが男性の精神性に食い込み、あるいは女性の精神性にも食い込みました。
夏目漱石がいみじくも憂慮したように、江戸時代から続く日本人の旧き良き精神性は、明治大正を経て一度潰えました。
が、昭和も30年を過ぎたあたりで、この江戸の精神性が見事に「時代」とマッチし、封建的男尊女卑が爆誕したものと思われます。

(なので話はそれますが、この時代に生きた人たち、今の老人たちが異様に時代劇が好きな理由が垣間見えますね。)

男には外に七人の敵がいる、とか。武士道は死ぬことと見つけたりとか。
そういうアラクレな「男道」観が出来上がったのも、実際炭鉱労働や山削って道作ったり青函トンネル掘ったりするのは「死道」であり、武士の気持ちに等しく重ね合わせでもしなけりゃやってられないたぐいのものです。
当時は本当に、男には外に七人の敵があったのです。エアコンの効いた室内で営業電話かけるサラリーマンが本来使うべき言葉ではないんですね。

その代わり、給料は働けば働くほど高くなる。
男が男であることに価値があり、文字通り売るほど仕事はあるので(そりゃ、一時的需給の均衡が崩れたことによる不況も、山ほど経験しますが)、男が一馬力で家庭を支えることになんの抵抗も難しさもない。
夫一人が馬車馬のように働けば、それでよかったわけです。

さて。
当時はもう、なにしろ仕事がなんぼでもあるし、人手不足ですからカネはおしみません。そして当時はなにしろ、今と違って財務省がない。大蔵省はありましたが、今ほど魑魅魍魎ではありませんでした。大蔵省が魑魅魍魎と化すのは角栄前後ですかね。その前までは政治家の発言力、牽引力が省庁のそれより上だった、と思います。ただ私もそんなに詳しくはないので、このへんは話半分でお願いします。
話がそれた。
こんな状況ですから、当時は子供も男の子を望む家庭の方が多かった。そりゃそうです。カネを生む金の卵だから。そして、希少だったからです。

このような背景を得て、男性中心「法人資本主義」(元の法人資本主義という言葉には、民衆が抱いていた会社どまんなか主義、という意味はないです。法人の法人株持ち合いを批判してます。詳しくはグーグルさんにお尋ねください)は生まれます。
前回の「途上国が先進国となるには」のお話で少し触れましたが、経済が右肩上がりで「成長中」の時は、力押しあるいは勢いで全てを解決できますが、品物が行き渡り、需要が飽和して「成長」が止まったとき、本当の試練が訪れるものです。日本はまぁ、試練自体は山ほど経験してきましたが、それは成長が止まり需要が飽和したというたぐいの試練ではなかったため、自分たちが「間違ってるんじゃないか」と、問いかけて危惧するような人間は少数派でした。
今となってみればおそらく少数派が正しかったのでしょうが、その少数派もいまや訳分からん自然保護とか原発反対とか美しい土地をとか世迷い言を抜かすだけの感情論しか喋れなくなっているので、多分正しいというよりはかつての共○党のように、
「世情の反対を叫び続けているうちに相手が勝手に失敗し、反対の方が正しかったんじゃないかという疑惑から勝手に成功が転がり込んできた」
タイプの正解者であったような気がします。

思いのたけを叫び散らすと本筋がどっかいっちゃいますな。
まとめると、あの時代男尊女卑社会であった理由は、単に需要供給の話で、男性需要が高く供給が少なかった、ということで。
会社中心主義的だったのは、文字通り大勢が精神を一にしてことに当たらないと乗り越えられない大事業が多くあり、それが農民の多かった日本独自の集団帰属の気運にマッチしすぎるくらいマッチしていた、ということです。
そして、それを見事に精神レベルでなぞらえるような「武家中心の江戸社会」という模範があった。

なのでそこをなぞるように男性中心の「イエ文化」が、水がスポンジに染みこむように浸透していったのだ、と思います。

しかし。

……しかし、以後はいいでしょう。「今」は「こんな時代」です。
具体的な状況も、そうなった理由も、みなさんご存じの通りです。
文化も常識も良識も、あるいは宗教観や道徳なんかも。
その背景となるべき根拠が崩れ去れば、崩壊するのは一瞬なのです。

なので、こういう事は言えましょう。
「今の時代に、60~70年代の会社中心主義社会、法人資本主義(意味違い)社会、イエ社会を肯定し、男尊女卑が治らない人たち。全員バカです」

……あ。僕、ひろゆきは嫌いです。
やってることは同じですが、だから余計に、です。
あしからず。
生まれて、すみません。

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