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執念のレモンパイ

母のレモンパイの話

といっても、「うちの母はレモンパイが得意で…」とかいう話ではない。

物心ついたときには母は私に散々言っていた。

「銀座のケテルのレモンメレンゲパイが食べたい」と。

銀座のケテルとは、母が大学時代に通った店で、いまは跡形もないそうだ。
こっちにしてみれば、「なんでこの人はショートケーキをつつきながらそんなことを言うのか」って思ったし、毎回毎回ケーキとかの生菓子を食べるたびに言うものだから私も気になってはいた。
大学生になって大阪や神戸に遊びにいく機会が増えたら、ふと立ち寄った店でレモンパイとかレモンメレンゲパイとかレモンタルトとか、1ピースだけ母に買っていって「これはどう?」と差し出すのだが、全然正解ではなかったようで「違うけどおいしい。ありがとう」みたいな返事が定番化していた。

大学卒業後就職して、なんやかんやで転職して、何をまかり間違ったか京都でお仕事に就いた。
といっても、本当に「なんで私ここにいるんだろ」くらい茫然としてたし
京都はそんなに好きじゃなかった。ほら、私、神戸の人間ですし。

まあ、そんなこんなで、仕事で京都をうろつくようになったころ、
上司が「僕はイノダコーヒーが好きでねぇ」と営業の帰りにイノダコーヒーの本店に連れてってくれた。外は町屋風なのに中はレトロな洋風で、なんとなく母校を思い出した。椅子にかかった白いカバーとかは銀座のウエストを思い出す。軽くケーキを食べて、あとは京都駅から帰るだけだったので、ショーケースの中に入ってたレモンメレンゲパイを1つ買った。
なるほどここのパイはやけに個性的な形してるな、と思った。
台座にかなりの厚みのメレンゲが乗っている。あんまり時間を置いたらメレンゲがしぼむやつだなぁと思ったけど、どうせ後は帰るだけだし、JRなので2時間弱ならもつだろうと買ったのだ。

家に帰って母にレモンパイを買ってきたと告げると嬉しそうに「楽しみ~」と言う。「今回のはねえ、こんなんなんだよ」と箱を開けて見せた途端に母が呻いた。

真上に乗っている粒状に固まった琥珀色のシロップを見てショックを受けたらしい。1個しか買っていってなかったから、ケーキの周りは動かないようにとケーキを停める為の保冷剤を包んだ仕切りなどが丁寧に入っていた。
ちょっと横から見せてあげようと保冷剤を取ったとたら、ケーキの側面が見えて、そして母はまた呻いた。

「ケテルのケーキだ…」

本当に絞り出すような声とはこんなものかと納得するような、声だった。
あと、更に言ったらフィルムに「ケテル」って印刷されてた。
まじかよ。

あとから調べたらイノダコーヒーは銀座のケテルが閉店する際にケーキ職人とレシピをすべて引き取ったそうで、ケーキ工房もあの本店の近くにあって、名前も「ケテル」だった。
なんで銀座のお店が京都に来てるんだよ!というツッコミはあったものの、まさかの巡りあわせで母のケテルに出会えたのでした。というお話。

これが「実はそのころの職人さんと恋仲で…」とか「死んだ祖父母との思い出の味…」とかなら美談なのだが、なんのことはない、うちの母の執念が自分の好物を引き寄せたお話です。

仕事で京都にいく度にちょこちょこケーキを買って帰るようになったし、
京都駅近くの店舗の場所はほぼ把握してしまった。

そういやこの乗り気でない転職も最後に背中を押しまくったのは母だったなぁ…と思いつつ、これは母がケテルを呼び寄せるためにわたしをここに就職させたんじゃなかろうかとか、怖ろしいことを想像したりしなかったり。

だって「あなたがこの会社に就職してよかった…ケテルのレモンメレンゲパイに再会できたし」としみじみと毎回いわれるので
やはり、母の執念だったのかもしれない。


※正しくはイノダコーヒ、なのですが、コーヒーといつもよんでるので、コーヒーと記載します。

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