諸法無我

3月がやっと終わろうとしている。

というのも、このひと月はずっと苦しかった。

それが、バランスを崩した精神の周期的な運動によるのか、
環境的な要因によるのか、その両方かはわからない。

いつの間にか、また本をよく読むようになった。

はじめこそ、新鮮な知識と可能性の広がりに悦んだが、
もしそうだと仮定したときのやるせなさに絶望した。
どうしてこんな重荷をわざわざ背負い込むのか。
自分に自虐趣味があるとは思いたくない。

福田恆存は、人生が劇的であることを語っていた。
それなら、僕の役割は何なのだろうか。
僕はそれを知りたくて本を読むのだ。

人の意識というものは、
意味のないことに耐えられない。
複雑に制度化した社会は、意味を遠ざける。

それは、無意味を排斥し、意味で埋め尽くし、
意味で埋め尽くされたせいで、意味を見失うことだ。

あるいは、意味で埋め尽くされた世界で、
無意味であるということに恐怖することだ。
僕の最近の絶望は、その意味のなさ具合にあった。
思えば僕は半年前、それを望んでいたような気もする。

だからこそ生成と消滅の精神史の序盤に救われ、
(西洋編の)終盤になればなるほどうんざりした。

人の意識が鏡でなく風なら、なんと爽やかであろうか。
しかし、センサーモーターは身体が根本にある。

どこまでも自由に思えた世界とこころは、
実際は私と私の過去でしかあり得なかった。

わたしの不幸はここにあった。
私は私が私でしかないことに失望した。
私は私が私意外の何かであってほしかったのだ。
もっと言えば、私は私が私以上であることを望んだ。

また、世界についても同様だった。
私は世界が私の意に沿わないことに憤慨した。
それは、世界が不条理であると思いたくなかった。

気が狂いそうになった私は、
とにかく旅にでることにした。

とりあえず、考えては行動できない。
とりあえず宿をとった先が目的地になる。

僕は城崎に向かった。
志賀直哉を読みかえした。
生と死は両極ではないらしい。

植村直己記念館に行った。
神々の山嶺を読みかえした。
山屋は山に登ってないとカスなんだって。

家に帰ってまた悶々と過ごす。
なんとなくドライブマイカーを見直した。
僕は正しく傷つくべきだったのかもしれない。

僕は今まで何を見て聞いてきたのだろう。
僕はいつから世界を斜めに読んでいたのだろう。

ひどく恥しかった。
それでも少し安心した。

僕は僕の環世界について、少しだけ理解した。
その理解を深めていけば、少しは開かれるだろう。

世界は凝り固まって色褪せたものでなくなり、
不条理と歓喜に絶え間なく明滅する。

知識の重荷に苦しめられても、
弁証法的に環世界を更新する。

私は私がどうしようもなく私であることを認め。
そこではじめて私以外の役を演じることができる。

僕は今、やっと三枝先生の空っぽの豊かさを想像し、
カフェのギャルソンのように仕事ができる気がしている。











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