「パターン化した言葉。言葉の責任と誠実さ」について

会話がある程度パターン化されており反射で発する言葉。多くの人が使っているから妥当性があるだろうと思って使用される言葉。が嫌いなことが多いです。対面、非対面の音声のやりとりはもちろんです。ネットも含みます。会話なので、Twitterの不特定多数に向けての投稿は含みません。これがリプライとなると会話とみなします。

パターン化は悪いことではないです。歌舞伎で観客が舞台に向かっての掛け声はパターン化されておりますが、劇という性質上これも演出としてのひとつの役を担っています。演劇ですがコミュニケーションとしてみなして、この場に取り上げました。
仲間内のスラング。これは一定の文脈を共有する者同士が、その友情関係を再確認するために、強固にするために、パターン化されたやり取りを繰り返すことがあります。パターン化されたスラングから生まれるのは、よくあるものが場の笑いという現象です。一定のサイクルで流行り廃りがありますが。また、そのパターンをわざと少し外すという工夫をすることでより笑えるもの、盛り上がるものになることがあります。

多くの人が使っているから妥当性があるだろうと思って使用される言葉。世間話などですね。当たり障りのない会話をしのぐときに使います。使われる相手も、その言語が使われることはある程度分かったうえでその会話に乗ります。私はあなたと会話をする意思がちゃんとありますという意思表明に使えて便利ですね。

私はこれらの言葉が使われる際の嫌いなシチュエーションがあります。会話の内容が個人的な内面について話されるときです。
具体例としては「仕事がつらい」という個人的な内容に対して「そんな仕事辞めよう!」と返すことです。
といっても、言葉の効果は会話をしている人同士の関係性に左右されるものですので、このアドバイスが効果を発揮することもあるでしょう。

私が問題としているのは、責任と誠実さを放棄している場合です。パターン化された言語には責任が意識されません。無意識的に使っているからです。他の人が良く使っている、よく耳にする言葉だから妥当性があるだろうと思って使用される言葉には責任が意識されません。その責任は意識の上では他の人に移譲されているからです。

責任と誠実さを放棄した会話では、会話相手の個人という人格を見えなくしてしまいます。どんな相手にでも通じる言葉というものは、特定のあなたにたいしては通じなくなってしまいます。

と、考えるので、個人的な内面に関する会話の際には相手の背景を考慮して、自分の言葉で会話をしたいと考える、のが、私の信条としてあります。実際問題できているかは、わかりません。

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