「語らないこと」について

昨日は、感情や嗜好はなるだけ言語化したいと申しましたが、曖昧にしたままにした方がよいことがあることは承知しています。曖昧というか、詳しく語らない。私の使う言語化とは外部出力というよりは内省でおさめておくことがほとんどです。コミュニケーションはありません。
でも、言語化というと言葉にして話すということのほうが、正しいでしょうね。語るに言うですし。時には内的会話があるかもですが。

ここではコミュニケーションのことを書きましょう。
わざと、あえて語らないということは大切です。語らぬことで、空白の奥行きを楽しみます。その、何もないけど、何かの気配を感じるという空間に身を浸すというのは、直接的感情の流れに身を任せるよりも温かい浮遊感があります。観念的な表現になってしまいますが。

語られないことを汲み取る行為は、話し手のこれまでの経験を想像することかもしれないので、その人との繋がりの深さの差によって受け取り方に差が生まれるかも。もしかすると、全てを語る行為よりも、語らないという行為はコミュニケーションの比重が、より受け手にかかっているのかも。

語られない、その奥を想像する。語らないのは信頼関係によるものか、それとも信頼関係が築かれていないからか。それも想像に任せるしかありません。語らないのは、話し手のわがままか。どうでしょう。

では、友人同士の会話です。
友人同士の信頼関係の上でのあえて語らない行為は、好きです。ツーカーの仲。目線だけでなんとなくわかる。それまでの付き合いの総体です。語らないということは、言語以外のコミュニケーション方法が、俄然立ち現れます。目線、ジェスチャー、息遣い。この行為は、お互いの信頼関係の再確認であり、より強固にするためにする作業のようなものかもしれません。

語る語らない、外部への出力。内観でおさめるか。フィクションでの語る語らない。表現方法のなかのひとつ。誤読への誘導か。どうでしょう。


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