「民俗学を趣味にすること。」について パートツー

以前も同じようなトピックで書いたことがあります。タイトルは違いますが、似通っているのでパートツーをつけました。

前回は、「民俗を対象にした趣味生活を送る場合、その民俗にはちゃんと担い手やそこで生活する人たちがいるので、部外者という自覚を持ち迷惑が掛からないようにしよう。対象の民俗が好きということはそれだけで自分の認識にバイアスかかって視野が狭くなってるから、それを語るときには気を付けよう」みたいなことを書きました。
今回は後半部分の続きっぽいのを書きます。

民俗の詳しい定義を書いておきます。これは島村恭則の定義を参照しています。短い文章で説明するのが面倒なので、『現代民俗学入門 身近な風習の秘密を解き明かす』から引用します。

人びと(=〈民〉)の間に見いだされる〈俗〉なるもののこと。〈俗〉と          は、①支配的権力になじまないもの、②近代的な合理主義では必ずしも割り切れないもの、③「普遍」「主流」「中心」とされるたちばにはなじまないもの、④公式的な制度からは距離があるもの、などをさす。

島村恭則『現代民俗学入門 身近な風習の秘密を解き明かす』2024 P150

が定義です。私が書く文章の民俗という語も以上の定義で進めていきます。

島村先生、諸星めぐるというVtuberの配信にゲスト出演されてトークしてたんですよね。そこで「(民俗という)視点でみてったときに切り取られた対象が、結果的に民俗になる」とおっしゃっていました。これは視聴していた私のチャットである「民俗という具体的なものがあるということではなく、民俗という視点で見るということですか」の質問に対する答えです。

いきなりいろいろ引用しましたが、ここで私が重視したいのは「民俗という具体的なものがあるのではない。研究者の目によって民俗は立ち現れる」ということです。これは、民俗という語を知ってしまった人間にとってはなかなか盲点だと思います。特に趣味で民俗学を勉強していると、本の中ではあたりまえのように現実世界のいろいろを、あれは民俗、これも民俗と断じて分析していくので、民俗は現実世界に実際に存在するものであると勘違いしてしまうんですね。
とあるお祭りを研究で取り上げると、このお祭りは民俗と思います。しかし「このお祭り=民俗」という図式は研究の上でしか成り立ちません。(研究を現実世界の実際問題におろすのはまた別の図式が必要だと思っています)
なので、とあるお祭りの担い手は「このお祭り=民俗」とは意識せずに行っています。
私が自分で気を付けなければならないなと思っているのは、この図式の先です。先というのはつまり、なにかしらの物事を民俗と断定したのち、その民俗を、聞きかじった半端な知識で分析や解釈を行いそれを発言することです。民俗学にはいろいろな概念があります。ハレとケ、マレビト、他界、伝承などです。これらの概念ですが、私も完璧に理解しておらず、さらには民俗学の歴史を追っていくと、時代によって使われ方が変化していってます。民俗という語そのものもなかなか定義が定まってませんし、最初に書いた島村先生の引用も新しいです。つまり、概念を理解するのはとても難しいとこだしなかなかできることではないです。

民俗には担い手がいます。生半可な知識で、担い手のことを無視した解釈を押し付けてしまうのは、失礼なことだと思っています。まかり間違ってSNS等で誤った解釈が広まってしまった場合、迷惑するのはその民俗を担っている人々です。簡単に言うと、「この祭りの起源は悪霊の慰撫だから、似たようなあの祭りもそうだろう」と考えなしに判断するのはやめようということです。祭りに限らず、担い手の歴史性や思考を無視するのは、他人の家に土足で入るようなものです。(ある祭りに関して間違った解釈が広まること自体が民俗になるという、メタ的な視点もあるなとも思っています)

いろいろ書きましたが一言で言うと「素人がテキトーな発言すると、どこで迷惑かかるかわからないから慎ましくしよう」です。


この文章は、私の趣味が世間に迷惑がかかった場合にどんなパターンがあるのかなという想像から始まり、具体的に言語化したものです。さいきん自分の中で民俗学熱が再燃しているので、自戒を込めて書きました。


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