「私の趣味に関して。民俗を対象にした趣味」について

この文章は一度投稿した後、再度編集して投稿しなおしています。足りない部分があったので。タイトルも変えました。

私は民俗学を勉強していたので民俗が好きなんですね。民俗というと具体例を挙げると、お祭りとか妖怪が世間的にはポピュラーなんですが、定義をみるとその具体例はもっと多くなるので調べてみてください。

この文章は内省的なもので、それらが好きだからこそ、自分の視点や発言に好きというバイアスがかかります。それの確認作業です。民俗を見つめ、愛でるとき、私はそれらの外側にいる部外者です。部外者であるから好き勝手言ってしまうでしょう。それに対する戒めです。
趣味的なものなら何を言ってもいいのではないか、どんな楽しみをしても自由ではないか、と思われるかもしれませんが、ダメです。民俗には当事者がいます。私はそこにずけずけと土足で足を踏み入れるという野蛮な行為をしているのです。部外者と当事者で分けましたが、それらが曖昧になる場面も発生するのでなおさらです。
重要なのは完全なる部外者は存在しえないということです。当事者に大なり小なりの影響を与えると考えます。ごく微量の影響でも、このことを自覚しておかなければ個人の趣味的行為を超えた領海侵犯が行われます。

この文章の主題は、私が好きな民俗に対して、私が愛着を持ってしまうという問題に、私はもっと自覚的になった方がいい、ということです。民俗を趣味としていかに語るか、表現の問題。
愛着とは感情の偏りです。私の視点が偏りを持つことに、どういった問題があるのでしょうか。
また、完全なる部外者にはなり得ないことについても書きます。

一つ目の問題点は対象の民俗の周辺要素を無視してしまうことです。
私が「民俗の消滅」を「死にゆく民俗」と表現したとしましょう。民俗は生物ではないので死という表現を使うのは、一種の比喩表現です。擬人化かもしれませんね。この表現をしてしまうのは、民俗を人格のあるものとして扱っているので愛着という偏りが発生しているとみなせます。
例えば、どこかで毎年行われているお祭りがあるとします。私が来年からはこのお祭りを行わないと耳にし、悲しみのあまりお祭りについてTwitterに「死にゆく民俗」と表現してしまったとします。この文章ではお祭りを担っていた人々の内面がまるっきり無視されているのですね。外から見える民俗のみを抽出したものの書き方です。もしかしたらお祭りを辞めるのは、担い手も葛藤したうえでの決断だったのかもしれない。お祭りと現代の生活スタイルに齟齬が生じ、維持するのが不可能になってしまったのかもしれませんね。人口減少というあらがえない現象に対する苦渋の決断だったのかもしれない。「民俗の消滅」は事実のみを書いている分、まだ中立的だと思います。表現的に強いですが。
こういった想像を巡らせず、「死にゆく民俗」と冷淡に断じてしまう。勝手に殺すな。民俗が好きだからこそ、その民俗の維持や継続が正しいと思ってしまうという問題です。その民俗を支えていた周辺要素の視点がなくなってしまうのですね。民俗はその具体例(祭りという行為的なものや物質的なものなど)が独立して存在するものではありません。特定の地域に存在し、その総体こそがそれを存在たらしめています。周辺要素を無視してはなりません。一つの民俗が消えてしまったとしても、新たなる民俗が生成するという可能性を無視しています。民俗を静態的なものとして勝手に固定しています。
「民俗が消える」という表現ひとつとっても、そこに含まれている偏りが読み取れますね。

もう一つの問題点があります。特定の民俗や愛着を持つということは、他方、特定の民俗や文化に愛着を持つことができないという可能性を含んでいます。これは一種の価値づけであり、主観による良い悪いが生まれます。
この問題点はわかりやすいですね。価値がないと判断してしまったものに対して冷淡になってしまうということです。つまり、他人が好きかもしれないものを無意識に蔑ろにしてしてしまう。


次のトピックの完全なる部外者にはなり得ないについてです。
私は休日になると車であちこち回っているんですね。主に写真を撮ってます。見るものを見たら、すぐ退散することにしています。地域住民ではない人間がうろうろしても怪しいですから。すぐその場を離れたとしても、何かしらの影響を残して帰ってると思ってます。
例えば道端のお地蔵さんを撮ったとします。たまたま私の行為を車で通りかかった住民が目撃したとしましょう。これから考えられる影響とは、たぶん、その日の夕飯の時に家族にひとつの話題としてあげるとかでしょう。話題にも上らないかもしれませんが。しかし、たった一人の人間に認識されるだけでも影響は影響です。地域住民からしたらとるに足らないものが、見られる対象という認識の変化を植え付けるかもしれないのです。その影響による変化について私は、責任を取ることができないのです。
大げさなifを書きましょう。私が撮影した写真をSNSにあげて、バズって、その撮影場所に大勢の人が訪れたとします。多大なる影響ですね。その写真が信仰物だったとしたら、信仰という認識に観光資源という認識が加わります。大勢の人が訪れることによる地域住民の生活変化も起こりえます。これは大げさなifなので、起こる可能性はごくわずかですが、かもしれない運転で行きましょう。なので写真を上げる場所と文章の内容は気を付けないといけません。
写真を上げたら、盗まれたという例もあるので気を付けないといけないですね。

問題の解決としては、自覚を持つことが大切だと思います。私はなぜ民俗が好きなのかを言語化することにより、客観的になり、自分の立ち位置を自覚できるのだと思っています。今回の文章もその作業の一環です。また、そもそも民俗学の勉強をし続けることが問題の解決にもなります。民俗学を勉強するメリットとして、自分の考えを相対化できることがあります。自らが抱く絶対的価値観を解体できる。自分の考えを相対化することがなぜ、今回の問題の解決につながるのかの詳しい内容は長くなるので省く。

個人の趣味でも個人では完結できません。何かしらの繋がりが発生します。特にこうして文章、映像、画像を人目につくところにあげていると、なおさらです。自戒を込めてのこの文章。

また、自覚を持つことが大切だと書きましたが、自覚していないことには気づけないんで、結局は勉強して知識を増やすことが大切なんですね。大変ですね、そうですね。


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