「他者化の言語」について

私にとっては異人、異界、周辺、彼岸はなじみの深い言葉でありまして、こういった語彙に触れることが多い本を読んできました。異人は人格を持つ存在に、異界、周辺、彼岸は世界について当てはめる言葉です。存在であっても世界であっても、自分たちとは住む場所を異にします。異人はときに私たちの住むテリトリーにやってきて、正負両方の何かしらをもたらします。違う世界は私たちは普段行くことのできない世界であり、異人たちはそこからやってきます。年に数回は異界は扉を開きます。私と異人と、此岸彼岸は裏と表の関係です。
しかし重要なのは現在の異人とは誰であるのか。異界とはどこであるのか。我々も異人になり得るということです。我々の世界も異界化することがあるということです。異界へ行くことはイメージがしやすいと思います。言葉を敷衍します。イベントがそれです。でも自身が存在するテリトリーが異界化するということはイメージしにくいと思います。自覚できるものではないかもしれません。現在において、ある日から、誰かにとって、私が異界に住む異人になるということです。
他人という重要性。他人の目からどう見られているかです。
私という存在が、他人からは異人になってしまう。異人化ではちょっと都合が悪いので絶対的他者化と呼びましょう。

異人は正負両方の性質がありますが、普段は負の側面が強く、他人からは完全に拒絶されます。むしろ現代においては正の側面が弱くなっているのかもしれません。もしくは正の効用が逆効果を与えてしまっているか。
私はこの拒絶という行為が好きではないのです。他人の完全なる拒絶。無関心ではなく、はじかれ、不当な扱いを受ける。異人という言葉は、無数に言い換えができます。昔も今も、新たなる絶対的他者化のための言葉が生まれます。

他者化された人格は、人間としての個をはく奪され、ありもしない瑕跡を与えられ、不当なカテゴライズをされる。元々なかった瑕跡は、けがをした覚えもないのに突如として皮膚に浮き出て、じくじくと痛みを発します。その疵は無残にさらけ出され、隠すという行為も非難される。絶対的他者化された人間は、その他の人たちと交わることができなくなってしまいます。

拒絶は理解しようとしないことであり、それは意識して理解しようとしないのかもしれません。いつかは絶対的他者化を行った自分がそれにされることを恐れて。

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