「去年今年 貫く棒の 如きもの」について

高浜虚子の「去年今年 貫く棒の 如きもの」です。
単純に読むと「棒が去年と今年を貫いている」といことです。

私はこの俳句が好きなので、これについて書きます。最近文章を書いていなかったので、感覚を忘れないようにするためにも。

以下は個人的な読解です。この俳句を、時間は直線的なもので、棒でそれを例えているんだと読んでみます。棒=直線的な時間の進み方ということです。「去年と今年という言葉上の区切りはあるけども、実際に時間には区切りなどないんだよ。この区切りは人間が作り上げたものなんだよ」ということです。これは現代的価値観ですね。時間は進み続け、不可逆である。
近代以前は農事歴、還暦等、時間は円を描いていました。四季は巡るし、人間は60歳を区切りに生まれ直します。
この俳句は、近代以前の時間感覚を相対化した進歩的な詩だと、私は思っています。現代の人々はこの感覚の方が強いでしょう。
しかし、時間というものは棒のようなものと言っても、近代以前の価値観にも私たちは縛られています。どうしても、四季は巡るし、毎年同じイベントが繰り返されます。この繰り返しという安心感を人間は手放すことができない。近代以前以後で分けるのも意味がないのかもしれませんが。
この俳句により、時間というものは人間がつくり上げた約束事であるんだと、時間に対する認識を相対化してくれたから好きなのです。時間の捉え方も絶対的なものではないということです。

円の時間と直線の時間。優劣の問題ではなく、捉え方により世界の認識も変わってくるということが私にとって大切なのです。

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