【連載小説】「逆再生」 第6話
9月4日 16時25分
坂巻佑子
消毒液の匂いが空気に充満していた。朝にしてはずいぶん薄暗い光が窓から入り、白いカーテンのかかった窓が、風の鳴き声と共にかたかたと揺れていた。
「じゃあ絆創膏貼っておくからね。今日一日はなるべくいじらないようにしてちょうだいね。」
保健の先生は手慣れた動きで絆創膏を貼り、私の膝を優しく撫でた。消毒液が滲みた瞬間は痛かったが、すぐ痛みが和らいだ。
それにしても、思ったより深い傷になった。砂利道を侮っていたのかもしれない。石は簡単に人間の皮膚を傷つけることを、私は知っていたのに。小石であっても瓦礫であっても、同じことなのだ。
怪我をしたのは、体育館手前の道で転んだときだった。体育館の扉を開ける時に逆再生が起こり、気が付くと数学の授業中だった。数学は一時間目、体育は三時間目だ。おそらく一時間半くらい戻ったのだろう。そして生傷の痛みに耐えながら授業を受け、一時間目の休み時間に入ってすぐ保健室に向かったのだ。
教室に戻って席に着くと、濡れて黒ずんだ鞄を持った直美が教室に入ってきた。今登校したということだろう。多分朝の電車が止まってしまったのだと思う。私も電車の遅延に巻き込まれこのくらいの時間に登校した記憶がうっすらあるからだ。私がまだ正常な時間を歩んでいた時の記憶だ。
逆再生する前の記憶は、常に今日の空のようにうっすらと霞がかっている。おおまかな出来事は思い出せても、細かい会話は思い出せない。二時間目の休み時間に直美に話しかけられたとき、うまく会話をすることができなかった。もしあの当時の会話を正確に覚えていれば、もう少し自然な会話をすることができただろうに。
私は今日の夕方、直美にすべてを話した。彼女は驚いてたが、同時に何かから解放されたような穏やかな顔をしていたように思う。その後は至って普段通りの、優しくてしっかりした彼女だった。
きっと、私のことでだいぶ思い悩んでいたのだろう。思えば今日学校でずっと不安げな顔をしていたように思える。私は彼女を安心させようとなるべくいつも通りに振舞ったつもりだったが、それは逆効果だったのだろうか。彼女にとっての未来は私にとっての過去であり、私にとっての未来は彼女にとっては過去だ。だから同じ事を共有できない。もちろん直美だけではなく、他のクラスメイトや家族も同じだ。私は、この奇妙な生活にいつまで耐えられるのだろうか。
あの神社で、直美が「昨日の夕方から急に変になった」と言っていたのが心に引っかかる。「変じゃない」とはつまり逆再生が終わるということなのだろうか。その時私はどうなるのだろうか。
考えれば考えるほど分からなくなり、頭が痛くなる。
「坂巻、おーい坂巻。生きてるかー?」
人形のように虚ろな目で空を見ていた私の肩を叩いたのは、寺尾君だった。彼はドアをちらちら確認しながら小声で話しかけてきた。ちょうど直美が職員室に遅延証明書を渡しに出るのが見えた。
「あ、あのさ。坂巻、小川と仲いいじゃん? 映像部で明日の放課後撮影に行くんだけど、美術スタッフを探しててさ。小川ってそういうのに興味あんのかなーなんて……。」
寺尾君は頭を掻きながら、ゆでダコのような顔をして優柔不断に話した。
「直接聞いてみればいいんじゃない。」
私はあっさりと答える。
「いやまあそうなんだけどさ。ほら、他の奴らも見てるし変な勘違いされるかもしれないし……お、小川に悪いかなあと思って!さ!」
「じゃあ帰りの電車で聞いてみるといいよ。寺尾君同じ方面だよね? 内回りに乗ればうちの学校の人そんないないよ。私は外回りに乗るから。」
「え!? なんだよ! お前はいないわけ?」
「一人でがんばってみなよ。今日直美は部活ないし、17時ごろの山手線内回りに乗って帰るよ。一番後ろの車両かな?」
そう言うと寺尾君は一歩下がり、急に不審な目で私を見た。
「な、なんだよお前予言者か? なんでそんな事まで分かるんだよ。き、気味悪いな。」
「気味悪いよね。私もそう思う。」
私は自嘲気味に笑った。
寺尾君は、直美の事が好きなのだ。彼は隠しているつもりかもしてないが、全身から滲み出ている。私は夏休み前からその事に気付いていた。
ぼんやりと思い出せる記憶の断片に、電車の中で寺尾君が直美に話をしている光景が浮かんでいた。つまりその場に私はいたということだ。だから、ちょっと状況を変えてみようと思ったのだ。
実際、神社での直美の話から察するに二人きりで話す事により仲は進展していたように思えた。
直美は私の話を親身に聞き、力になると言ってくれた。だから私もこういう事で直美の力になりたい。直美も寺尾君の事が、前から少し気になっている様子だったからだ。
直美が小走りで教室に戻ってくると寺尾君は慌てて席に戻り、わざとらしく教科書を読みはじめた。窓の外を見ると、カラスの群が強風に逆らっては流される行為を繰り返していた。
その後二回の逆再生を繰り返した。下駄箱で傘の水気を払っている時から一時間目の授業の途中、そして電車のドアが開いて外にでる瞬間から下駄箱の傘の水を払い始めた時。私はこの急激な状況変化にも、段々動じなくなっていた。この慣れがいい事なのか悪い事なのかはよく分からなかった。
実際今下駄箱の取っ手を持っていたはずの手には電車のつり革が握られ、目の前の風景が突然ガラス越しになって高速で動き出したことに私は何も感じていない。
最近ドアの上部にできた液晶のモニターには、次に止まる駅名が表示される。それを見てだいたいの時間を把握した。
原宿駅。位置的にはちょうど真ん中あたりだ。どうやらこの日の私は珍しく内回りに乗っていたらしい。おそらく外回りが風で停滞でもしていたのだろう。時間も通学時間にしては早い気がした。
ふと目を右に向けると、長身の男子高校生が幽霊のように静かに立っていた。
「は、橋本君。」
「……坂巻か。」
橋本君は瞬きをあまりしない黒々とした瞳で、ドア窓からの景色を目で追っていた。眼球という記録媒体にすべてを漏らさず記録しようとしてるようにも見えた。手には相変わらずビデオカメラが握られている。
「橋本君、いつもこの電車に乗るの?」
「まあ、だいたい。」
「じゃあ結構来るの早いんだね。そういえばいつも朝きたら教室にいるもんな……」
「ああ。」
こっちが質問しては向こうが返答するという会話。その逆は無い。一方通行な会話だったが、なんだかんだで話をつなぐ事が出来た。映像部の学祭の話や映像の作り方の話など、彼のプライベートの話題を避けつつ積極的に話してくれそうな方向に話を持っていけたからだ。
普段橋本君は人と会話をしない。彼に対して臆せず話しかけられるのは、寺尾君ぐらいだった。それは同じ映像部員というのもあるだろうし、寺尾君の人徳もあるのかもしれない。
その他の学生が話しかけてもだいたい一言二言でそっけなく済ましていた。一度帰国子女の黒田が面白がって彼に質問攻めをしていたが、ほとんど無言の返答で終わらせていた。
そう考えると、私が今こうして彼と長く会話できているのは不思議なことだった。そういえばあの運命の廃マンションの時、彼は自分から私に話しかけてきてくれたような気がする。もしかしたら、私の事を周囲より少し特別な存在として扱ってくれているのだろうか。それは嬉しい気もしたが、理由が分からないので奇妙でもあった。
電車は目黒駅を通過した。スーツ姿のサラリーマンの姿が増え、窓にくっつくように押し出されてしまう。窓は蒸気で白く染まっていた。
「なるほど、じゃあ順番とタイミングを意識して撮ればビデオカメラの中だけでも映像作品ができちゃうんだね。」
「そうだな。あとワンカット撮りという手もある。」
「ワンカット?」
そう聞き返したところで、大きく電車が揺れた。
「一度も停止せず一回の録画で全部のシーンを繋げる。」
「うわ~、それ難しそうだなあ……」
私はそうつぶやくと、上を向いて溜め息をついた。液晶モニターには、「次は田端」と表示があった。
田端……? 目黒の次が田端? 目黒と田端は丁度半周くらい離れている。
そして私はある疑惑を持ち、突然橋本君の方を向いた。
「橋本君、ワンカット撮りって何?」
「……今説明した。」
彼はそっけなく答えた。
そうか。そういうことなのか。
「橋本君も、”逆再生” ……してるんでしょう?」
その瞬間、目の前に反対回りの電車が高速で通過した。
彼は顔の表情一つ変えずに、佇んでいる。無言である事が最大の肯定だった。
「橋本君もあの廃墟の倉庫の扉を通ったの?」
そう言うと彼はゆっくり口を開いた。
「あそこからではない。”扉”はあそこだけじゃないんだ。あのマンションはあと二日後に解体されるしな。」
「それを知ってると言う事は、私より未来から来たんだね。」
「そうだな。」
「どうして、来たの?」
「それは言えない。」
私たちは、淡々と異常な会話を続けた。同士であることが分かったおかげか、気付けば彼と話す事に何の気構えも感じなくなっていた。
「あの”扉”は一体何? あの中の空間は、本当に現在と過去を繋ぐ道だって事なんだよね?」
「……いや。正確にはちょっと違う。」
「えっ!?」私は素頓狂な声を上げる。
「”扉”を通って来た世界は、元いた世界とそっくりの平行世界だ。」
「え、えっ……じゃあこの世界にいたはずの私は!?」
「もといた世界の坂巻と入れ替わっているはずだ。ただ、逆再生ができるのはこっちだけらしい。つまり入れ替わった向こうが過ごす時間は一瞬だということになる。」
一瞬だけだとしても、突然何の前触れも無くあの死の淵を味わうのだとしたら、それは恐ろしい事だ。私はもう一人の私を哀れんだ。
「じゃあこの逆再生が終わったら元の世界の自分に戻るんだね……。」
「そういうことになる。終わりがいつ来るかは人によって違うらしいな。」
私の予測が正しければ、昨日の夕方なのだろう。
私は深いため息をついて俯いた。この世界でどうあがいても私が死ぬ事に代わりは無いのだ。そして、そのタイムリミットも近付いている。
「橋本君の終わりはいつ来るの?」
「詳しくは言えないが、坂巻よりは先になるな。」
気が付くと、台風吹きすさぶ朝の谷中霊園に私は一人立っていた。
けたたましいカラスの鳴き声が聞こえる。木々は大きな一つの怪物のように、暴れ狂っていた。
私はあの時、死という現実から逃げ出した。過去に戻ってでもいいから少しでも長く生きたい、ただじゃ死にたくないと足掻いていた。
実は私ともう一人の私の間には時間差がある。私が死の間際から扉をくぐって出て来たのは買い出しに行く前だった。橋本君の話が正しければ、もう一人の私はそこで入れ変わったのだろう。
そしてそのわたしも戻った後、瓦礫に落ちて死ぬのだろうか。
どちらに向かっても、終わる運命。
私は傘を投げ捨て、誰もいない墓地で雄叫びを上げた。カラスたちが慌てふためき四方に飛び散る。
そして鈍く光を拡散させる天に向かって、声を上げて笑った。
─────────────────────
続く
文・絵 宵町めめ(2008年)