【連載小説】「逆再生」 第3話
9月4日 07時45分
小川直美
太陽の見えない朝でした。
車内アナウンスの声は、一定時間ごとに何度も何度も同じ内容を繰り返し話しています。
「山手線は台風の影響のため」「現在運休のめどが」「今しばらくお待ち下さい」
もう電車が動かないのは分かったから。そう叫びたい気持ちでいっぱいでした。
電車の中は苛立った学生やサラリーマンで溢れ、床は雨水と泥のついた靴跡で汚れています。強めのクーラーが濡れたシャツや靴下を冷やし、なんだか鼻水が出てきました。こんなことなら隣りの「弱冷房車両」に乗っておけば良かった、と後悔しました。
眠くて体がまだ起きていないのにもう何十分も立ちっぱなしで、疲れも出てきています。
窓の外では、風が白く肉眼で見え、口笛を吹くように音を立てていました。こんなに目に見えて すごい台風なのに、どうして警報が出ないのでしょうか。私は、今警報が出て学校に行かずにこのまま帰れたらどんなに楽かと想像を巡らせていました。
奥の座席には私と同じ制服の人がちらほら見えました。きっと遅刻する人は多くなるのでしょう。
でも、いつも高確率で同じ電車に乗る佑ちゃんの姿はありませんでした。
昨日の夕暮れ、谷中墓地を抜けたところで別れてから、私はずっと佑ちゃんの事が気になって仕方がありません。
あの橋を渡ってから、私たちは一言も喋らず歩き、別れの挨拶だけして去りました。
最初佑ちゃんの様子が変わった時、私は彼女を怒らせてしまったんじゃないかと思っていました。ちょっと調子に乗ってからかい過ぎてしまったのかもしれません。背が高いってだけで、つい上から目線になってしまったのかもしれません。
でも、手紙を読んだ後の彼女の表情からは怒りや嫌悪は感じ取れませんでした。不思議なほど穏やかなのです。今日のような荒れ模様では無い、広く澄みきった空のように。
あの手紙に何が書いてあったのでしょうか。私に関する事なのでしょうか。私は佑ちゃんに特別感謝されるような事をしたのでしょうか。いくら考えても、あの言葉の真意がが分かりませんでした。
あの時、彼女の大きく丸い瞳は遥か遠くを見ているように思えました。木々も墓地も雑居ビルも通り抜けて、ずっと遠い空を見ていたのでしょうか。
いくら車窓に目を凝らしても、今の私には吹きすさぶ白い風の帯しか見えないのでした。
「直美ぃ~!遅かったじゃん! 休みかと思ってたよ~。」
一時間目の休み時間にのこのこと教室に入ってきた私に声をかけてきたのは、前の席の早紀でした。
「うん、台風で電車止まっちゃって。ずっと立ってたから疲れちゃったよ、もう。」
「あ、山手線でしょ!? 結構みんな遅れて来てたよ。でも逆にさぼれてラッキーだったんじゃない? 今日の数学サイアクだったよ! 抜き打ち小テストとかほんとやめてほしいわぁ。」
早紀は上半身をひねってこちらに乗り出し、マスカラで逆立てた睫毛をぱちぱちさせながら言いました。はっきりと強い口調で物を言う様は、彼女が帰国子女であることをどうしても意識させられます。
「あ、ねえ。みんな、遅刻してきたの?」
私は彼女の愚痴を遮るように、聞きました。
「そうだよ。さっちゃんとか多恵子とか。岡と寺尾はさっき走って来たよ。あとはえーと… そんなもんかな?」
「…佑ちゃんは?」
「佑子ちゃん? 確か普通に来てたと思うけど…。」
「どんな様子だった?」
「え? どんなって…別に普通だけど…。何?ケンカでもしたの? いつもあんな仲よさそうなのに。」
窓側の席をちらちら見ながら、早紀は私の耳に向かって囁きました。
「あ! ううん、違う違う。全然そんなんじゃないから!」
慌てて訂正すると彼女は訝しげな顔をしながら体を正面に戻し、机を片づけはじめました。
私は窓側の席に、恐る恐る目を傾けました。
佑ちゃんは、自分の席に一人座っていました。雨雲の向こうの、遠い遠い空に目を向けているのでしょうか。
強風で窓が軋む音だけが、私の耳に響いていました。
「佑ちゃん、おはよう。」
私が彼女に声をかけたのは次の休み時間でした。
「あ、うん。」
返ってきたのは、意外なくらい普通の反応。
「台風、激しいねぇ。うちの植木鉢倒れちゃったよ。」
当たり障りのない話題を振りました。
「わあ、大変だったね。あのハーブは無事だった?」
「あれはなんとか。でも今は大丈夫かな…」
「うーん。祈るしかないねえ。」
佑ちゃんは、少し困った顔で微笑みました。
少し元気が足りないけれど、いつもの柔らかく穏やかな彼女でした。
肩の力が抜けた私は、一息ついてから本題に入りました。
「佑ちゃん。今日は早い電車に乗ったの?」
「え?」間の抜けた声。「電車?別に……普通だったはずだけど」
「あれ? じゃあ佑ちゃんも遅刻したってこと?」「遅刻って…」丸い目が少し泳ぎます。「ああ。朝は遅刻してないと思うよ。」彼女は宙に浮くような声でそう言いました。
「遅刻していないんだとしたら」私がそう口にすると、彼女は遮るようにこう言い放ちました。
「ひとつ早い電車で来たのかもね。電車、止まっちゃったんでしょ? 私、朝ボーッとしてて時計とか見ないから気付かないんだ。」
そう言いながら下がった靴下を上げる彼女の右膝には、少し大きめの絆創膏が貼ってありました。
「足、大丈夫?」私は絆創膏を覗き込みます。
「ちょっと滑ってコケちゃってね。でも大丈夫だよ。痛くない。」
そう言いながら佑ちゃんは膝を軽く擦りました。「私、ボーッとしてて…」
さっきと同じ、言葉。
「……佑ちゃん。」
私は言葉を溜めてから、絞り出すように話しました。
「少し、疲れてない? 昨日の帰りもなんか突然その…ボーッと、し始めて。」
すると、佑ちゃんは絆創膏を直す手を止め、ゆっくりと私に顔を向けました。
「昨日の私、変だった?」
「えっ……あ、いや、変というか、えっと」大きな黒目に見つめられ、言葉が出ません。
「そっか」
彼女はそう呟くと、切なそうに目を下に向けました。
「ごめんね。明日も変だと思うよ。」
佑ちゃんが転んだのを見たのは、次の三時間目の体育の時でした。
体育館へ向かう砂利道で転んだ彼女は、右膝を擦りむいて保健室で絆創膏を貼りました。
「ボーッとしちゃって」そう苦笑いすると、体育館の方にひょこひょこと走って行きました。
そして……これは私の見間違いでしょうか。
”ボーッと”しているのは私の方なのでしょうか。
体育館の扉を開いた彼女の足には、絆創膏も傷も無いように見えたのです。
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続く
文・絵 宵町めめ(2008年)
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