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剣術のことなど、黒田鉄山師範のご逝去

振武舘(しんぶかん)第15代宗家 黒田鉄山(くろだてつざん)師範が3月3日亡くなられました。享年73歳。剣術、棒術、柔術、居合術等の宗家として、古武術を伝えてきた方です。

剣術の発生と発展について、記事にしたいと、考えていたところ、黒田師範の訃報がもたらされ、あらためて、日本の剣術について、ここに記事として投稿します。

剣術の歴史に触れるにあたり、まず、武士の歴史について触れておきましょう。

武士の源流をどこに求めるのか、ということですが、古代の日本にある頃、入植した集団がいたでしょう、ただ、かれらは全員が騎兵ではなく、歩騎混合だったでしょう。戦国時代でも騎兵と足軽の割合は1対10ぐらいです。

記録上、平安時代には武装した集団として台頭、各種の争乱に活躍し、中世から近世にかけて、日本を統治していきます。

ここで神宮について。神社にはいくつか、種類があります。○○神社、○○神宮、○○大社、○○稲荷、○○八幡。このうち、神宮は天皇家の先祖、それに類する人を祀った神社です。

この神宮のうち、特に古いのは鹿島神宮、香取神宮、伊勢神宮であり、なかでも鹿島神宮と香取神宮は歴代の武家政権から崇敬されてきました。千葉県にある香取神宮はフツヌシが、茨木県にある鹿島神宮はタケミカヅチが祀られています。

いづれも武神とされ、現代では武道において信仰の対象となっています。

香取神宮のある千葉県はまた、ヤマト王権との交流を示す、前方後円墳が最も多い県であり、このあたり、武士の発祥を知る手がかりがあるのでしょう。

武士の戦闘術としては、平安から鎌倉にかけては弓が、室町から安土桃山では槍が、江戸期には剣が主流になる、という変遷があります。

武士の原型は騎兵だったでしょう。馬上から弓を放つ。今では流鏑馬(やぶさめ)として継承されてますが。このため、武士道の別の言い方に「弓馬(きゅうば)の道」が、天下一の武人としては「海道一の弓取り」という表現があります。

室町時代、いわゆる戦国時代になると、主武器は槍になります。賤ヶ岳の七本槍、一番槍、こうした表現があるのも当時は槍が戦闘の中心だったからでしょう。

江戸時代になると、防具の使用とあいまって、それまで禁じられてきた他流試合も盛んに行われ、それに伴い、多数の門弟を抱える剣術道場も現れます。

剣術の発祥と発展について。

武士の原型が騎兵であると前述しましたが、モンゴル騎兵の剣がそうであるように、初期の日本刀も馬上から振り下ろす仕様でした。それがやがて、地上で切りあう仕様へ変化していきます。

剣の稽古は当初、木の枝を荒く加工したものを利用していたでしょう。それがやがて、木剣として、精緻に加工した木製の剣になっていく。

ただ、木剣での稽古、現代のように、互いの体に当てぬよう配慮した稽古ではなく、加減無しに打ち込んでいたでしょう。はたして、時折、事故が起きてしまう。

このため、中世のある頃、袋竹刀が考案されるようになったのでしょう。全力で叩いても事故にはならない。

しかし、事故は起きなくとも、打ち込めば、気絶はするし、悶絶もする。このため、近世のある頃、防具が登場したのでしょう。これは撃剣と呼ばれ、剣道の前身であり、現在でも継承されています。

現代の剣道は足払いもありますが、ほぼ竹刀で打ちあうだけなのに対し、撃剣は組んで、投げて、関節技まであります。しかも、竹刀が現代の剣道のそれに比べ、かなり太く、防具の面をつけていても、頭頂を叩けば、気絶させてしまうのだとか。

江戸時代になり、実戦の機会はなくなりますが、この間、武士達は各藩の流派、剣術等の研鑽を続けます。そして、江戸末期。その術理が実戦で試されます。

蛤(はまぐり)御門の変。京都の市中に乱入した長州勢とそれを迎撃した幕府勢の戦い。この時、諸藩の武士達が槍もありますが、主に剣をもって、戦っています。「剣の集団」対「剣の集団」という世界史にも特異な現象です。

明治10年の西南戦争、映画「ラストサムライ」のモデルになった、この戦いでも剣は活躍しています。当初、銃で戦っていた鹿児島県士族は、兵站の不足を補うため、隙を見て、剣で襲撃を繰り返し、政府軍を相手に局地的な勝利を収めます。政府軍もこれに対抗すべく、士族出身の警察官に剣を持たせ、斬り込ませています。武士の時代の最後を飾る戦いだったといえるでしょう。

廃刀令と共に剣術道場は廃れていきますが、剣術等の武術は現在でも各地で継承されています。

冒頭で書いた黒田鉄山師範は祖父や父から武術を継承してこられました。昨年、5月に病床に伏せるようになって、ほどなく、子息の泰正(やすまさ)氏が16代宗家を襲名しておられます。

アジアを中心に各地に伝統武術がありますけど、黒田家のように一つの一族で数百年にわたって、武術を継承していく、というのは日本独自の家元制度によるのでしょう。これは武術に限らず、様々な分野でみられますが。

黒田鉄山師範は武術雑誌、月刊「秘伝」が取り上げる武術家でも看板的存在でした。海外でも術理の紹介と普及に尽力してこられ、このため鉄山師範の訃報にはyoutube上でも、海外から哀悼の意が表されていたものです。

あらためて、この場を借りて、黒田鉄山師範のご冥福をお祈りいたします。

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