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70についてのお話

こんにちは。身近な数字のアドバイザーのナカナカです。

今日のテーマは70、相次いで創業70周年を迎えたわが国の2大航空会社にちなんで、空の安全に関するお話です。

ANA(全日空)の前身である「日本ヘリコプター輸送株式会社」は1952(昭和27)年に誕生し、2022年12月に創業70周年を迎えました。国内線ならどこでも片道7,000円で搭乗できる「ANA SUPER VALUEセール」などの記念キャンペーンを利用された方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ANAより1年早く、1951(昭和26)年に戦後初の民間航空会社として誕生し、2021年8月に創業70周年を迎えたJAL(日本航空)は、これを記念して「アニバーサルアイテム」を販売中です。例えばJALオリジナルの「復刻柄 法被(はっぴ)」は、初来日の羽田でタラップに並んで手を振る若き日のビートルズを思い起こさせますし、復刻版エアラインバッグの中央には1989年まで使用された「鶴丸」の旧ロゴを見ることができます。

さて、羽田空港から10kmも離れていない土地でANAと同年に生まれた私にとって、空港は折に触れ自転車を走らせて行く身近な存在でした。駐機している外国の飛行機を眺めては海外への憧れを募らせた十代の頃を振り返って一番記憶に残っているのは、1966年に起きた連続航空機事故の思い出です。

最初の事故は1966年2月4日の夜7時過ぎに起きました。ただならぬサイレンの音に家族と共に自宅の外に飛び出した当時中学生の私の目に、おびただしい数の赤色灯が映し出されました。何か大変なことが起きていると震えることしかできなかった私には、北海道千歳空港発の全日空ボーイング727型機が羽田空港沖12kmの海中に墜落し、乗員・乗客合わせて133人全員が死亡するという大惨事とは思いもよらないことでした。

この事故で行方不明になった18人の海中捜索が続いていた同じ年の3月4日、午後8時過ぎにまたしても緊急車両のサイレンが鳴り響きました。ひと月前と同様におびただしい数の赤色灯が空港方面に流れて行きます。胸騒ぎを感じた私に届いたのは、予想通り航空機墜落のニュースでした。事故を起こしたのはカナダ航空のDC8型機で、濃霧の中を着陸しようとして高度が低すぎたために防潮堤に激突、炎上したのです。死者64人、激突した機体から飛び降りて奇跡的に助かった重軽傷者が8人いたそうです。

2月、3月の「4日(金曜日)」に起きた2つの事故。因縁めいたものを感じていた私は、翌3月5日にも衝撃的なニュースを耳にすることになります。墜落したのはBOAC(英国海外航空:現在の British Airways)ボーイング707型機。羽田を飛び立った後、香港に向かって飛行中の午後2時過ぎ、御殿場上空で空中分解し富士山の中腹に落下したもので、乗員・乗客124人全員が死亡しました。皮肉にも、前日の事故で大破したDC8型機の残骸の傍らを滑走路に向かうBOAC機の姿がニュースで流れたことも覚えています。

さらに、同年8月26日には日本航空の訓練機が羽田空港での離陸に失敗、滑走路脇に墜落炎上し、乗員5人全員が死亡するという事故も起きています。当時はパイロットが訓練するための専用飛行場がなかったため、やむなく混雑している羽田空港での訓練を行っていたことが当時の記録から明らかになっています。

そして11月14日、松山空港に着陸予定の全日空YS11型機が空港から3キロ沖に墜落。乗員・乗客50人全員が死亡しました。国産初の旅客機であること、新婚旅行に向かう11組の夫婦が搭乗していたことなどが悲しい記憶として刻まれました。

1966年に相次いだ5件の航空機事故で命を落とした人は376人、航空行政の遅れが問題になりました。例えば、事故の原因究明はその都度個別に設置された調査委員会によって行われていて、独立した「航空事故調査委員会」が設置されるのは1974年のことです。また、この時代の民間機にはフライトレコーダー、ボイスレコーダーともに搭載されていなかったため事故調査は困難を極め、松山空港沖の墜落事故については遂に原因が特定できずに終わったそうです。

BOACボーイング707型機にはフライトレコーダーが搭載されていたものの、火災により激しく破損したため調査の役には立たず、事故の詳細を明らかにしたのは乗客の一人が所有していた8mmカメラの映像でした。自己現場から回収されたカラーフィルムからは、飛行経路や飛行速度まで割り出すことができたそうです。その結果、「富士山の風下で突然乱気流に巻き込まれた」という事故原因の特定に至り、映像の持つ威力を知らしめたのです。

わが国の民間機にフライトレコーダーの搭載が義務付けられるようになったのは1975年のことですが、そこに至るまでには全日空機と自衛隊機が衝突して乗客・乗員162人が死亡した「全日空機雫石衝突事故(1971年)」という痛ましい事故を経なければなりませんでした。

さらに、大量輸送時代に合わせて導入された日本航空のボーイング747型機(ジャンボジェット)が群馬県多野郡上野村の山中に墜落し、乗員・乗客あわせて520人もの死者を出す大惨事が起きたのは、1985年8月のことでした。結婚後に関西に移り住んでいた私は、夫の同僚の家族が東京発大阪行きの同機に乗り合わせていたことを知り、やはり凍りついた記憶があります。

ANAもJALも、こうした事故の教訓を活かす取り組みを続けて70周年を迎えたはずですが、これからも過信することなく安全な空の旅を提供し続けて欲しいと願っています。

参照
財団法人日本航空協会の「日本航空史(昭和戦後編)」
NHK映像アーカイブ「NHK放送史」

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