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はじめちゃんのはなし

吉祥寺にハモニカ横丁という飲み屋街があり、20歳くらいだった私はその中のある店でアルバイトをしていた。
細い通路の一角にある、扉のない、屋台のような、カウンターだけの店。
それでもお客さんがたくさん来た時には椅子を通路ギリギリまで増やしたり立ち飲みしてもらったりで、20人弱がわいわいしていたのではないかと思う。その店を開店から閉店までひとりで仕切るのが仕事だった。

フードの種類は多くなかったが、ドリンクはビール焼酎ウイスキー日本酒カクテルワインとひと通り揃っており、いらっしゃいませからオーダーを伺い伝票をつけ、ドリンクフードを作り提供し、お客さんと会話をし、お会計、皿洗いまで全てひとりでこなすのはなかなか大変だったがとても楽しかった。

この店で私は色々な経験をした。


半畳もないキッチンでチャーハンやオムレツを次々作り熱中症になりかけたり(半分屋外なのでエアコンはない)、

なんだか目が回るのでお客さんにご馳走してもらったお酒を数えてみたら20杯飲んでいたり、

向こうから歩いてくる常連さんの姿を目の端に捉えれば即イツモノヤツを作り椅子に座る前に提供する技や、首が短いだのもう少し痩せればモーニング娘に入れるんじゃないかだの執拗に容姿のことをネタにしてくるおっさんを華麗にスルーする技を身につけたり、

ときには危ないお客さんに退店をお願いして酒瓶を逆さに持った手を振り上げられたり。

今思えばとてもハタチの小娘がやるようなバイトではなかった。

19時オープン翌朝5時クローズだったため生活もめちゃくちゃになった。
5時に閉めてそのまま帰ればいいものを最後まで残ったお客さんと2軒3軒ハシゴ酒をし、あげくに焼肉を食べてフラフラの帰り道、すれ違う登校の学生達に白い目で見られることも日常茶飯事だった。


出禁、という言葉がある。
ハモニカ横丁のお店達はもちろんライバル同士でもあるのだが仲間意識もとても高く、先輩店主達はみんなとても優しくしてくれた。このお客さんは無銭飲食をしたから、このお客さんは酔って暴れたから店に入れちゃダメだよ、なんて情報を教えてくれた。

とにかく店と常連さんと自分を守ること、何かあればお代はいらないので帰ってくださいと一言冷静に言うこと。
そう教えられていた私は、なにそれかっこいいじゃん。と密かにその時がくるのを楽しみにすらしていた。


出禁リストに、はじめちゃん、というおじさんがいた。
本名かどうかはわからない。
いくつかの店で出禁になっているが、いちばん遅くまで(というか朝早くまでというか昼までというか)やっているお店には入れているようだった。
その店は若い人達が日替わりでやっていて、わたしも自分の店を閉めたあとたまに飲みに行かせてもらっていた。

狭い階段を上っていくと「おーももちゃんおつかれー」と店主が声をかけてくれ、カウンターには誰も座っていないのが見えた。
あ、もう閉めるとこだったかな、悪いことしちゃったなと思い、また今度にしようかな、と言うと、「大丈夫だよ奥行って」とひとつだけあるテーブル席をすすめられた。
死角になっている席に、白いシャツのボタンを3つか4つあけて金のネックレスをし、指にもたくさんシルバーのリングをつけてお酒を飲んでいるはじめちゃんがいた。

出会ってしまった。

でも、はじめちゃんはこの店でよく飲んでいると聞いていたし、店主もきっと慣れている。なにせ私は今店を守るべき店員ではなくただのお客さんなのだ。
朝の定番グレープフルーツ割りを頼むと、はじめちゃんの向かいに座らせてもらうことにした。

はじめちゃんは最初のうち、私のことが見えていないかのように店主とのみ会話をしていたが、急にこちらを向いたかと思うと銀のアタッシュケースをテーブルの上に取り出して、ガラガラの声でなにかを言った。

拳銃が出てきそうな冷たさのケースだった。
開いた瞬間とっさにそらした私の目線の先に、はじめちゃんはひとつなにかを差し出して、これをやろうと言った。

ガサッとした質感の手のひらにのっていたのは、銀色のゴツゴツした指輪だった。



最近全然飲みに行けていないが、きっとあの頃とは店員さんもお客さんの顔ぶれも変わってしまっているのだろう。

はじめちゃんと乾杯をしたのはその一度だけだったけれど、私はそのとき彼のことをちっとも嫌だとか怖いとか思わなかった。
出禁になっているからにはきっと理由があるはずなので、基本的には決まりに従う。でも、もし今度うちの店に来てくれて、もし他のお客さんがいない時間帯だったなら、一杯飲んでいってもらおうと思っていた。また上手く聞き取れないガラガラの声で、なにかを話しかけてほしいと思っていた。

はじめちゃんはそれから数年して亡くなった、とだけ人づてに聞いた。


あの指輪をどうしたのか覚えていない。なんだかわからないけどやっぱり怖くなって次の日に店主に渡して返してもらうようお願いしたような気もするし、場所は忘れてしまったけれどどこかに大切にしまってあるような気もするのだ。


制作代にさせていただくかもしれないし、娘のバナナ代にさせていただくかもしれません。