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コントロード 第五十七話「いつまで学べば良いのだろう」

役者になりたい。

初めてそう思ったのは小学校高学年の頃だった。

なりたい、というか、自分は役者になるものだ、とずっと思いこんで生きてきた。

僕はいつだってどちらかといえば目立つ方のタイプではないし、口数も決して多い方ではない。

そんな僕が幼少期に親戚がやっていた日本舞踊の教室に通い、初めての舞台を踏んだ時、身長がとても低かったため(僕は生まれてから今日までずっと小さい)、「あの子はまだあんなに小さいのにとっても上手ね」とお客さんからえらく褒められた。それに気を良くしたのか、人前で何かを演じることが年々好きになっていった。

毎年クリスマスには家族と叔母夫婦が家に集まってクリスマス会をしていた。

狭いマンションの一室に皆が集まり、隣の和室との仕切りである襖を劇場の幕に見立てて、僕と兄が様々な出し物をした。

進行は僕たち兄弟と母が作ったお手製のプログラム通りに進み、

「続いては、ガクの○○で~す!」

と司会進行までも僕がこなした。

出し物と言っても子供の考えることなので、当時観ていたテレビ番組で子供心に面白いと思ったものの真似をするだけなのだが、両親や叔母夫婦はどんなことでも笑って盛り上がってくれるのでさらに人前でなにかをするのが好きになった。

今思えば当時観ていた「ものまね王座歌合戦」のネタなんかを驚くほど低いクオリティで行う「ものまねのものまね」だったり、できそこないのパントマイムなんかだったりした。

今思い出してもわけがわからないのは、

「ガクのゴルフゴルフ」

という演目で、これは襖が開いたと同時に僕が父のゴルフクラブを持って「ゴルフゴルフー!」と叫びながら上手から下手に走り去り、ほどなくすると今度は下手から上手にまた叫びながら走り去るのを繰り返すだけという、面白くもなんともない地獄の時間だったのだが、こんなことでも盛り上がってくれた親たちには本当に感謝している。世の親御さんたちは子供に勘違いさせないようにつまらないものはつまらないとはっきり言ってあげたほうが良い。

そんなわけで人前で演技めいたものをやるのが好きになった僕の演劇の原体験というのは、多くの人がそうであるのと同様に小学校の学芸会だった。

僕の小学校では三年に一回学芸会が開催され、僕の場合は小学校三年生と六年生の時だった。

三年生の時にやることになった演目は、「どろぼうがっこう」という「だるまちゃんとてんぐちゃん」などで有名な絵本作家かこさとし先生の絵本を基にした演目で、後から知ったのだが様々な小学校の学芸会で演じられている名作であった。

ウチのクラス3年1組では、主要キャストの4人だけは希望者でクラス内オーディションを行うことになり、「引っ込み思案で消極的」などと通知表に書かれていた僕が、なぜかどうしても準主役の石川五右衛門先生をやりたくなって立候補したのだった。

オーディションでは、五右衛門先生の最後のセリフ「うわあ、ざんねんむねん!」を立候補した4人ぐらいで順番に言っていくのだが、それぞれが恥ずかしがりながら頑張って大きな声で言ったりする中、僕は手で頭を抱えて尻もちをつきながら言うというアクションを交えて皆の笑いを取り、見事その役を勝ち取ったのだった。「ガクのゴルフゴルフ」で培った経験が役に立った、のかどうかはわからないが。

それ以来ずっとずっと役者になりたい、役者になるんだと根拠のない自信を持ち続けた僕は、日本舞踊もやりながらテレビドラマや映画に夢中になり、様々な経験をして大学でついに演技を専攻することになり、小さな世界で名役者ともてはやされた。

それ見たことか、僕には才能があるんだと思ってから10年近くが経ち、オーディションなどではそれなりに結果を残すも一向に売れる気配が無くなった頃、セトと出会ってしまってひょんなことから芸人になった。

初めは芸人になんてなれるわけがない、とコントの誘いを断っていた僕を説得するためにセトが言った言葉は

「売れたらなんだってできる」

だった。

たしかにそうかもしれない。

芸人がニュース番組のコメンテーターをやり、映画やドラマで重要な役を演じ、ミュージシャンとして曲を出したり監督業や作家業まで、芸人の活躍は目覚ましい。

だが、まずは売れなければならない。

テレビにも調子の良い時はひと月に一度ぐらいは出られるようになった。

キングオブコントというコント師の日本一を決める大会では3000組中の5,60組まで絞られる準決勝には残れるようになった。

お笑いファンであれば「ツィンテル」といえば「あーマセキのコント師ね」と覚えられるくらいにはなった。

だが売れてはいない。圧倒的に。

これでは芝居はできない。

運良く芝居の現場に行ったとしても先輩のお手伝いだ。

まずはネタで世間に覚えてもらう。そうしたら今度はバラエティ番組のひな壇だ、そうして次にはリポーター、エピソードトークも増やして、ギャグも苦手とは言えど一つくらいは持っていなきゃいけない。

勉強、勉強。

40近くなってきたこの頃、僕はいったいいつまで勉強すれば良いのだろう、と思った。

いつになったらやりたいことができるのだろう。

僕がやることなすことすべてを肯定してくれた親はたしかに僕に、何でもよく学ぶように「学」という名を付けてくれた。

人間は死ぬまで勉強。

そんなことはわかってる。

だけど、これ以上セトとなにをどうやったら売れるのかがわからなくなっていた。

すると不思議なことに仲が悪くなってくる。

コンビというのはそういうものだ。

うまくゆかないことを相方のせいにし始めたらコンビは良くない方向に行っていると思って良い。

コンビ「ツィンテル」は確実に良くない方向に向かっていた。

あんなことまで腹が立ってしまうなんて。

(第五十八話につづく)

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